北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -8-

HOMAS<NO、52>(2007,12,1発行)
北海道近代の黎明・・・松前藩から北海道へ
―交易の拠点「箱館」の発展と高田屋嘉兵衛の活躍―


■夜明け前
  近年、道南地区の縄文遺跡群が大きな話題になっていますが、北海道に人々が定住したのはいつなのか、興味深いことです。・・・・・歴史的にはかなり古くから、アイヌ民族が本州東北部から北海道、千島列島、樺太(サハリン)を生活圏としていたようですが、14~15世紀の道南には多くのアイヌ集落があり、和人(シサム・シャモ)集団との交易が盛んに行われていたようです。また道南地域には、津軽の十三湊_(とさみなと)を拠点とした安藤(安東)氏配下の豪族による、12の「館」(たて)<城砦・拠点>を中心とした和人集落がつくられて、蝦夷(アイヌ)との産物の交易で繁栄し、その活動は日本海一帯から大陸にまで及んでいたといわれます。しかし、和人によるアイヌ人刺殺事件を発端として、コシャマイン酋長を中心とするアイヌ人側が12の「館」(たて)を激しく攻撃しました。その結果和人10館(たて)が敗れ、やっと下之国茂別館・上之国花沢館の2館(たて)が勝ち残ります。その後、上之国の守護武田(蠣崎)信広がコシャマイン酋長父子を弓で射殺、アイヌ軍が崩壊して戦いが終結したといわれます。

■松前藩の時代へ
  こうして、武田(蠣崎)信広(松前藩の祖)が道南の館主の覇者となり、第5代武田慶広のときに豊臣秀吉や徳川家康から、独立した諸侯とみとめられて姓を「松前」と改め、「福山城」(松前城)を築城して、「松前藩」の成立となります。  松前藩は、米がとれないことから「無高(むだか)の藩」と呼ばれ、海産物・毛皮などの交易で繁栄を築いていきますが、シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦いなどアイヌ民族との抗争も続きました。アイヌ交易の独占的な権利を得た松前藩は、生産物の交易を拡大し、松前・江差・箱館の「松前三港」を交易拠点として繁栄しました。やがて、天明期(1781~1788)ころから、北前船の出現により、寄港地も多くなりますが、箱舘に入港する船が急激に増加するようになり、天明5年(1785)には、長崎俵物会所が箱館に置かれてから、「箱舘」が俵物集荷拠点となり発展していきます。
  松前藩は、幕末に勤王派となったために、箱館戦争(1868-69)で土方歳三の旧幕府軍の攻撃によって落城、松前藩の栄華は灰燼に帰します。そして明治2年(1869)版籍奉還を願い出て、260年余の歴史の幕を閉じるのです。そして明治4年(1871)、廃藩置県により「館県」となります。
  江戸中期からロシアの南下政策で、ロシア船が各地に寄港を求めてきましたが、松前藩は、国法により交易できないと通告していました。しかし、寛政元年(1789)6月、ロシア使節アダム・ラスクマン一行が箱館に入港しました。これが箱館に入港した最初の外国船でした。寛政8年(1796)9月、イギリス航海士ブロートンのプロビデンス号が内浦湾に来航しました。(この時、ブロートン船長が有珠山や駒ケ岳などの火山軍に驚き「ボルケイノーベイ(噴火湾)と命名したといわれます。」  度重なる蝦夷地近海の外国船出没に対して、幕府は北方警備が急務であるとし、寛政10年(1798)に蝦夷地直轄の方針を決定します。幕府は寛政11年(1799)東蝦夷地を松前藩から上知させて直轄し、箱館に蝦夷奉行(のち函館奉行に改称)を置きました。対外警備のため、第一に釧路・根室への沿岸道路の開削を急ぎ、官船も準備しました。あわせて西蝦夷地の交通条件も駅逓を設けるなどして幕府直轄後に大きく改善されました。(その後まもなく伊能忠敬・間宮林蔵らの測量により、ほぼ完全な北海道全図ができました。)蝦夷地の生産増強・農耕をすすめるために八王子からの屯田兵を入植させたがあまり成功しなかったといわれます。それから、場所請負人の搾取を排除するべく、蝦夷地交易の改革「幕府直捌(じきさばき)」を実施しています。さらに、キリスト教などの侵入を防ぐために、東蝦夷地全体に五カ寺が計画されましたが、有珠の浄土宗善光寺(文化元年1804)、様似の天台宗等じゅ 院(文化2年1805)、厚岸の臨済宗国泰寺(文化2年1805)の三カ寺が建立されました。のちに善光寺末寺として、宗谷に北蝦夷地最大の寺院として浄土宗護国寺(安政3年1856)が建立されています。

■箱館港の発達と高田屋嘉兵衛の活躍
  蝦夷地が幕府直轄地となって、箱館奉行所(享和2年・1802)が、重要な拠点となります。国後・択捉を含む東蝦夷地全域の産物が直接箱館に集荷されるようになったのでした。高田屋嘉兵衛の択捉漁場開発もこうした状況下で幕府の命令によって行われたのでした
  ここで、北洋漁業の先駆者、高田屋嘉兵衛(1769~1827)の生涯をたどってみたいと思います。嘉兵衛は、明和6年(1769)、淡路国百姓弥吉の長男として生まれています。<北海道開拓使設置のちょうど100年前です。> 嘉兵衛は、貧しい8人家族の長男として、12歳の時奉公に出ます。淡路島の奉公先雑貨商「和田屋」で商売のコツを学び、寛政2年(1790)21歳の時、兵庫港に出て舟稼ぎをやり、24歳で沖船頭となり回曹業を営むようになります。寛政8年(1796)3月、「辰悦丸」(1,500石積)を新造して、27歳ではじめて船主となり、箱館港に入港。その後南千島・国後・択捉との交易・開発事業のため運航することになります。



[写真] 辰悦丸 1500石積<約150屯> ( 20分の1模型 ) 
札幌市教育文化会館ロビー展示 <札幌アカシヤライオンズクラブ寄贈>(昭和56年)


  以後、蝦夷地の産物との交易のため毎年箱館に来港するようになります。寛政10年(1798)には弟金兵衛を支配人として箱館大町に支店を設け、5艘の所有船で兵庫・大阪・下関と箱館を往復するようになりました。寛政12年(1800)高田屋嘉兵衛は、弟金兵衛とともに辰悦丸に乗り、6艘を率いて択捉島へ渡り、17ヶ所の漁場を開くことに成功します。
その後、嘉兵衛は、官船5曹の建造を命じられ、ただちに大阪に下ってこれを造船し、翌享和元年(1801)4月箱館と兵庫を拠点に「蝦夷地定雇船頭」として官船及び官雇船のすべてを一手に支配して、千島方面の運航に当たったといわれます。帝政ロシアの最初の遣日使節としてラクスマンが寛政4年(1792)根室に来航、翌年6月江戸幕府宣諭使との会見を求めて松前に来航しますが、松前藩は長崎が外国との交渉窓口であるとして、ロシア側の信書を受理していません。そして、文化元年(1804)、ロシア使節レザノフが食糧補給のため、日本との通商を要求して長崎に来航しますが、幕府は鎖国を理由に、通商を拒絶。その結果、文化3~4年(1806~1807)ロシアは樺太・択捉を襲撃します。その後幕府は西蝦夷地も直轄し、南部・津軽藩さらに秋田・庄内藩からも出兵を命じて警備を強化しています。

■ゴロウニンが補縛され、函館・松前へ
    こうした日露の緊張下で、文化8年(1811)5月4日、千島測量中のロシア船ディアナ号鑑長ゴロウニン海軍少佐以下8名が国後島に上陸したところを、幕府役人が捕縛するという事件が起きました。ゴロウニンらは、根室から陸路護送されて7月箱館に着き、8月松前へ移され、2年3ヶ月拘禁されることになります。ゴロウニンは、帰国後の「日本幽囚記」で、松前と箱館での2年3ヶ月余りの幽閉生活で出会った日本人の印象について「天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない」と述べています。同じ文化8年(1811)8月14日、高田屋嘉兵衛は、観世丸で択捉から箱館への帰路、国後ケラムイ岬沖で、ディアナ号のリコルド副艦長に発見され、ロシア側に拿捕されます。
   こうして、嘉兵衛が、随行の5人と一緒にカムチャツカに翌年春まで拘束される事件がおこります。しかし、その拘束期間、嘉兵衛は、その率直さと正直な態度でリコルドの信頼を得るようになったといわれます。文化10年(1813)5月、リコルドは、嘉兵衛らを連れて、国後で幕府とロシア側の交渉を開始します。嘉兵衛は、人質としてではなく、調停役として、カムチャツカで学んだロシア語を駆使して、日露の交渉・調停に尽力し、ゴロウニンの釈放と高田屋嘉兵衛自身の帰還が実現します。このゴロウニン事件を機に、ロシアとの関係は改善され、緊張状態は緩和されたといわれます。その結果幕府は、直轄していた蝦夷地を文政4年(1821)、松前藩に返しています。この嘉兵衛の努力によって、その後の日露の交易も好転して盛んになりました。嘉兵衛は、こうして箱館の町を発展させ、北洋漁業のみならず日露の民間外交の基礎を築いた人物として高く評価されています。しかし、嘉兵衛は、このロシアの抑留生活で、体調をくずしたといわれ、5年後の文政元年(1818)50歳の時、箱館の店と高田屋の事業すべてを弟に譲り、22年間滞在した箱館を去りました。その後、郷里淡路島で余生を送り、文政10年(1827)、59歳で、この世を去りました。
  その後高田屋は、天保2年(1831)、ロシアとの交易について、幕府の厳重な取り調べを受け、結果的に所有船12隻すべてを没収され、船家業差し止め、所払いの処分を受けて没落の悲運をたどっています。
  現在、函館市の宝来町に高田屋嘉兵衛の銅像と、高田屋嘉兵衛資料館があります。また根室市の金毘羅神社にも銅像が建てられています。平成11年(1999)、高田屋嘉兵衛とゴロウニン、リコルドの子孫が松前・函館を訪れて、それぞれに先祖の事積に思いをめぐらせたといわれます。

■松前藩から北海道へ
    嘉永6年(1853)6月3日ペリー艦隊が浦賀に来航します。そして翌年再来日、3月3日に日米和親条約が締結され、下田・箱館(2港)の開港が決定されました。条約締結後4月、ペリー一行は箱館にやってきています。同年8月、ロシアのプチャーチンの軍艦ディアナ号が来航、下田で条約交渉時の11月4日大地震でディアナ号が大破したため、幕府が代りの船を建造するという出来事もありました。これに対して後日、ロシア側から幕府へディアナ号の大砲が返礼として寄贈されています。
 安政2年(1855)の箱館開港を控え、箱館奉行の役所と住居の建設が急務となります。結局、武田斐三郎が設計担当した「五稜郭」が、ヨーロッパの城塞都市をモデルとして7年の歳月をかけて建設されました。またその北側に箱舘奉行所に勤務する役人約400人の住宅(長屋)が半分ほど建てられたといわれます。「五稜郭」が奉行所として使用されたのは、約4年間でした。幕府崩壊、箱舘戦争を経て、その後、明治4年(1871)には、開拓使によって取り壊されることになります。安政6年(1859)に貿易港として開港した箱舘は、欧米にも広く知られ、ロシア人やアメリカ人、イギリス人、フランス人などとの異文化交流、諸外国のさまざまな舶来品が流通する国際都市であったといわれます。
   明治元年(1868)1月の京都の鳥羽伏見の戦いにはじまる戊辰戦争は、2月上野の彰義隊の戦い→8月会津戦争・飯森山(白虎隊自刃)→そして翌年5月の箱館戦争で終結します。明治2年(1869)7月、明治政府により開拓使が設置され、「北海道」と改称して新時代を迎えることになります。



<参考文献及び参考資料>
・「新版北海道の歴史」下 関秀志・共著 北海道新聞社  ・「北海道の歴史」 榎本守恵著 北海道新聞社  ・「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版   ・「北海道の歴史散歩」 北海道高等学校日本史教育研究会編 山川出版社   ・「函館歴史文化観光検定公式テキストブック」 同作成委員会 函館商工会議所   ・その他インターネット資料など





 HOMAS<NO、52>(2007,12,1発行)
新企画三笠バスツアー1日コース・・・・・・・・北海道の石炭と鉄道の歴史発見の旅
平成20年度 第1回 国際交流ランチセミナー in 三笠 (案)
―クロフォード公園・ 三笠鉄道記念館・三笠市立博物館・三笠山コース ―



日 時 平成20年6月28日(土) 8:00 ~ 18:00 (実施予定)
コース 札幌NHK前出発ー(三笠市へ)クロフォード公園(旧幌内太駅舎)ー 三笠鉄道記念館 - 旧幌内炭鉱跡(音羽坑口)(立坑)ー <昼食会> ー 三笠市立博物館 ー 三笠山(観音山)三十三観音めぐりー 札幌帰着
参加費 会員・学生 3,500円 一 般 4,000円(昼食代・資料代・写真代・バス代)
< 入館料(団体料金) 鉄道記念館420円・博物館300円は、マ州協会負担 >

★三笠の歴史は、早くから注目されていた幌内川や幾春別川上流の石炭層が明治6年(1873)、開拓使顧問ホーレス・ケプロン(1804~1885・米マサチューセッツ州出身)の石狩炭田等の資源調査を受けて、ベンジャミン・S・ライマン(1835~1920・米マサチューセッツ州出身)が幌内川上流を精密調査して石炭埋蔵量の良質で豊富なことを建言したことにより近代化の歴史が加速します。開拓使は、明治10年(1877)幌内炭山の開坑を決定します。
★明治11年(1878)、ジョセフ・U・クロフォード(1842~1924・米ペンシルバニア州出身)が幌内鉄道建設の技師長として招かれ、幌内から小樽までの石炭輸送を目的とする手宮―札幌間(明13、11開通)、札幌―幌内間(明15、11)の「幌内鉄道」を完成させます。こうして三笠の歴史の歯車が大きく動き出しました。しかし炭坑発展のかげには、樺戸集治監(明14設置)に次いで、空知集治監(明15-明34)が三笠に設置されて、多くの囚人が道路建設やガス爆発・落盤事故の多発する坑内作業に使役された過酷な歴史もありました。これらの歴史は「三笠鉄道記念館」「三笠市立博物館」で学習することができます。
★桂沢湖(桂沢ダム・昭和32年完成)周辺に分布していた白亜紀の地層からは多くの化石類が発掘されており、
天 然記念物「エゾミカサリュウ」(愛称リュウちゃん)等の恐竜化石類や、約3、000点のアンモナイト等が「三笠
市立博物館」に展示・収蔵されています。なお、桂沢湖畔に、復元された約7メートルのリュウちゃんが立ってい
ます。
★山容が奈良の三笠山に似ていることから古くから「三笠山」(113m・標高差76m)とよばれている山があり、大正
  2年(1913)大凶作の後、村の有志が豊作を祈願して大正4年(1995)西国33ヶ所の霊を写して、33観音を建立
したことから「観音山」とも呼ばれて信仰の山となっています。
★明治39年(1906)、幌内、幾春別、市来知(いちきしり)の三村合併のときにこの山の名をとって「三笠山村」となり
ました。そして昭和17年「三笠町」となり、さらに昭和32年「三笠市」となって今日に至っています。

今回は、1日バスツアーとして、北海道の石炭と鉄道・北海盆唄発祥の地「三笠コース」を企画しました。米国マサ
チューセッツ州からの短期交換留学生グループや北大留学生・小樽商大留学生・札幌国際センターJICA研修生
などの各国ゲストと一緒に、異文化ふれあいの旅「国際交流セミナーツアー」の1日を楽しんでいただきます。


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