北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -7-

HOMAS<NO、51>(2007,7,26発行)
地質測量・鉱床調査のベンジャミン・S・ライマン
―北海道鉱山開発の基礎を築き、多くの優れた日本人鉱山技師を育てる―

  明治政府が進めた北海道近代化の開拓の歴史は、きわめて急テンポの展開であり、それはまた、北海道と米国マサチューセッツ州との国際交流の出発点でもありました。明治2年(1869年)7月、開拓使を設置して、諸外国の先進技術・文化導入の方針を定め、78人の外国人技師・専門家を招きました。そのうちアメリカが最も多く48人でした。
  明治3年(1870年)5月開拓次官となった黒田清隆の努力により、まず、明治4年(1871年)7月、開拓使顧問として米国農務省長官ホーレス・ケプロン<マサチューセッツ州出身>(1804~1885)一行を迎えます。[黒田清隆は、明治7年(1874年)8月、第3代開拓使長官になり、開拓使廃止直前の明治15年(1882年)
  1月まで、本道行政の直接の責任者として活躍し、北海道開拓の基礎を築いた最大の功労者といえます。]
  続いて明治6年(1873年)1月、 地質測量のベンジャミン・S・ライマン<マサチューセッツ州出身>(1835~1920)一行、そして7月には、農業牧畜のエドウィン・ダン<オハイオ州出身>(1858~1931)、さらに明治9年(1876年)7月 即戦力の人材育成を目指す高等教育のウィリアム・S・クラーク<マサチューセッツ州出身>一行などを迎えて、その優れた指導力のもとに、いろいろな開拓事業を進め、また「札幌農学校」を開校したのでした。これら米国マサチューセッツ州出身者は、総じて勤勉で献身的に職務以外の仕事にも非常に熱心に取り組み、ほんとうに北海道開拓期の立派な指導者でした。
今回は、明治6年(1873)1月に来日し、3年間にわたり北海道全域の地質測量・鉱床調査を行い、本道鉱山開発の基礎を築いたベンジャミン・S・ライマン(1835~1920)の業績について取りあげてみたいと思います。
  ベンジャミン・S・ライマンは、1835年<天保6>12月11日、マサチューセッツ州ノーサンプトンの名門の家にサミュエル・ライマンを父として生まれています。祖父はイエール大卒で裁判所判事、父はハーバード大卒で判事、母はスミスカレッジ創立者ソフィア・スミスの従妹で、知性を誇る由緒ある英国型の家筋でした。ライマンはまじめで向学心の強い青年でハーバード大学(法律)を卒業。法律事務の仕事には就かず、著名な地質学者であったペンシルベニア州フィラデルフイァの伯父J・P・レズレー博士の地質測量を手伝っています。当時、ペンシルベニア州には古生代の大炭田層の分布が知られ、貴重なエネルギー資源として地質調査が行われていました。その後、コンコードの中学校で教鞭を取り、当時この地に集まっていたオルコット、エマーソン、ソロー、ホーソンなど著名な作家・思想家などの影響もうけたといわれますが、数月にして教育者の生活を辞しています。1859~1862、フランス・パリのエコール・ド・ミン及びドイツフライブルグのベルグアカデミー鉱山学校で、地質・鉱物学を学びます。帰国後は、アメリカ各地の地質鉱床調査に従事しています。1870年<明治3>イギリス政府の委嘱で1年にわたり炎熱のインドパンジャブ地方の油田調査を行い、帰途、中国、日本に立ち寄り翌年帰国しています。
  ライマンは、明治5年(1872年)5月、開拓使の招聘を受け、日本行きを決心しています。ライマン(37歳)は<年俸7,000ドル>の契約で、助手H・S・マンロー(後にコロンビア大学学部長)とともに来日、明治6年(1873年)1月18日東京に到着しています。翌日、開拓使官舎に移り、早速英和辞書や会話本を注文して、地質調査準備のかたわら日本語学習に励んだといわれます。来日後、ただちに北海道地質測量のことを嘱され、まず日本人助手を要求します。そこで開拓使は「開拓使仮学校」、<(明治5年3月、東京芝増上寺境内に設置→明治8年9月札幌に移して「札幌学校」(札幌農学校の全身)→明治9年8月14日「札幌農学校」として開校>から13名の有為の青年を選抜しています。ライマンとマンローは、短期間ではありますが、これらの青年たちに、数学・物理・化学をはじめ測量・地質・鉱物学の専門的知識を教授しています。日本には正式の地質学の教育がなかった時代で、ライマンの地質調査の方法は日本の地質学の先駆となったといわれます。そしてライマンは、明治6年(1873年)4月から3年間、地質学鉱山学教師・地質測量鉱山技師長として、助手マンローと同行の13人の日本人の青年たちとともに道内各地の地質鉱床調査の測量を開始します。
  初年度は、明治6年(1873年)4月下旬、まず、北海道南部の沿岸・積丹半島・幌内炭田の調査にあたり、この後、開拓使顧問ホーレス・ケプロンに同行して石狩等を調査しています。また埋蔵量の豊富な石狩炭田を察知し、特に幌内付近が適切であることを指示しています。ライマンは苦難の多い奥地踏査中にも、雨天の日などは、テント内で終日、日本語の勉強をしたそうです。またアイヌ語も日常会話を理解する程度まで修得したといわれます。この年は、降雪のため11月中旬に調査を打ち切り帰京します。そして、「北海道地質測量報文」を提出しています。
  第2年度は、明治7年(1874年)5月から、石狩炭田の詳細な測量、次いで石狩川水源・十勝川流域等を調査。さらに、釧路根室各地の鉱床をたどって、北見・宗谷・留萌・小樽を経由する北海道沿岸調査をして10月下旬に函館に到着・帰京しています。この第2年度の北海道一周地質調査では、ライマンは、すべてを日本語でやり通したといわれます。ライマンは、松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」を携帯したといわれますが、このほとんど人跡未踏の原野を行く、熾烈をきわめた調査旅行にもかかわらず、チームワークも円滑且つ和気あいあいのうちに見事な成果を収めています。そして北海道地質検査巡回記事・調査報文・地図などを提出しています。
  ライマンが、東京の平河町に購入した家には、石灯篭のある広い庭園・花壇・池などがある和風の邸宅でした。明治7年暮れには、使用人の家族も移り住んで、家中にぎやかになり、彼は家庭的な雰囲気を喜んだといいます。使用人の子供を学校にやり、病気をすれば、入院費を出し、家庭問題が起きれば、よき相談相手となって世話をしたので、皆に、一家の長として、尊敬され、慕われたといわれます。また室内には書画を掲げ、日本の伝統芸能である義太夫・文楽・落語などにも不快関心を寄せ、日本庭園作りに力を入れるなど東京山の手の生活と習慣を楽しんだようです。
  第3年度は、明治8年(1875年)6月中旬から調査を開始して、札幌・石狩・幌内地方の幌内石狩川間と幌内空知川間の連絡通路の測量に当たり、道内の3年間の調査を終えて、東京へ戻ります。そして、200万分の1の北海道地質図である「日本蝦夷地質要略之図」を完成し、さらにこの地質図の説明書ともいうべき「北海道地質総論」をまとめ、「北海道地質測量報文」などを提出しています。後にこれらの業績は、幌内炭鉱<明治13年(1880年)開坑>をはじめとする北海道の鉱山開発の基礎となっています。また、その運搬計画のために測量された鉄道路線は、後に明治15年(1882)幌内鉄道の開通となって実現しています。さらに、ライマンは、開拓事業に対して、社会制度・教育制度・移民制度に関しても、時の黒田清隆長官に進歩的な建言をしたといわれます。
この当時の北海道の踏査は、道もないところを切り開きながら毒虫に悩まされ、熊の恐怖におびえながら野営を重ねていくものでした。ライマンの調査隊は、開拓使の事務官、荷物運搬のための人夫等もふくめて、総勢40~50人からなり、全体が一団として進行するのではなく、その職分に従って行動したようです。ライマンは馬上から、地質の露頭を観察しスケッチをしながら移動したようです。同行した当時の日本青年たちが書き残したものによると「密林の身の丈にも余るほどに生い茂った熊笹を刈り取るのが第一の仕事」と語っています。このきびしい調査旅行の間、ずっと起居を共にして、地質学とその実地の応用技術を教え導いたライマン、マンローの偉大さ、そしてその新しい技術を体得しようと辛抱強く従った若き技術者たちにはほんとうに敬服の限りです。ライマンの地質調査の目的は、有用鉱産物の発見とその開発でしたが、最も力を注いだのは石炭の調査で、後の茅沼炭鉱・幌内炭鉱・美唄炭鉱などの基礎資料が報告書にまとめられています。
  その後、開拓使のすすめにより、明治9年(1876年)2月<年俸10,000ドル>で2年間内務省、ついで明治11年(1878年)2月<年俸14,000ドル>で工部省の嘱託となり明治12年(1879年)7月まで、東北・北陸・中国・四国・九州の地質調査にあたり、特に新潟油田の開発に大きな影響を与えたといわれます。ライマンの指導を受けた日本人の青年たちは、後に、優れた鉱山技師となり北海道のみならず日本の鉱業開発に貢献しています。
  ライマンは、契約終了後も自費で日本に滞在し、各地の鉱山、炭鉱、温泉などの報告書をまとめ、全国的な地質調査事業を続けようとしていましたが、明治政府が、明治12年(1879年)、当時東京大学理学部採鉱冶金学科で教えていたドイツの地質学者エドムント・ナウマンに、その後の日本各地の地質調査の仕事を任せる方針をうちだしたため、ライマンは、いわば事業半ばにして、明治13年(1880年)12月22日、日本を立ち、ヨーロッパ経由で明治14年(1881年)5月帰国したのでした。8年ぶりにノーサンプトンに戻りました。
その後1887年、ペンシルバニア州フィラデルフイァ市を永住の地とします。再び各地鉱山の調査にあたり、1887~1895ペンシルバニア州立地質局副長、鉱山会社顧問技師として活躍します。このころ、日本に関する多くの論文を学術雑誌に発表しています。1895年<明治28>、フィラデルフィア市に事務所を設置。主として石炭鉱山の顧問技師として活躍します。明治36年(1903年)、日本鉱業会は、ライマンを名誉会員に推戴しています。明治40年(1907年)、フィリッピンのラントア炭田の調査に赴き、途中日本に立ち寄って、わずか2日間の滞在ながらも門下生たちの歓迎をうけています。また、ライマンの晩年は、経済的には楽ではなかったようですが、日本の弟子たちとの交流も大事にし、また日本から留学した日本青年達の面倒もよく見てお世話されたということです。
  ライマンは、恵まれた環境で育ち、真面目な努力家でもあったので、その学識・趣味はきわめて広く、専門の地質学・鉱山学・地理学のほかに、文学・哲学・美術・民俗などの知識が深く、語学も非常に堪能であったといわれています。ライマンは、日本語の修得のみならず、日本文化・古典文学にも深い関心を寄せ、非常に広い分野にわたる日本の資料・文献を収集し、自ら日本文化を研究し、著作活動しています。また、日本をこよなく愛し、帰国後も日本での生活を懐かしみ、日本の祝日には「日の丸」を掲げ、室内には日本の書画を飾り、お茶をたしなみ、在留日本人を自宅にまねいたりして交友関係を保ち続けていたといわれます。
  1920年<大正9>8月30日、フィラデルフィアで84歳で死去。ライマンは終生独身で、菜食主義の実行者であり、日本をこよなく愛した外国人の1人でした。

ライマン・コレクション
 ライマンの死後、彼の残したコレクションは、米国哲学協会、ペンシルベニア歴史協会、郷里ノーサンプトン市のフォーブス図書館に分割して寄贈されました。フォーブス図書館には1921年春に約5千点の資料がフィラデルフイァから到着しました。
ライマンは大変な親日家で、几帳面な性格だったので、このコレクションには約2千点の日本関係資料が含まれていました。日本関係資料をおおまかに分類すると、日本文化に関心をもち収集した江戸時代から明治初期にかけての広い分野にわたる文献、書簡類(彼自身の書簡の控綴を含む)、調査や日常生活に関する会計簿類、彼の著書、膨大なフィールドノート、地質測量図、彼の日本語の修得に関する資料、写真などとなります。<その整理には、当時マサチューセッツ農科大学(現マ州立大学)板野新夫助教授とアマースト大学学生中川久順が協力しています>
 1985年、フォーブス図書館がこのコレクションを手放すことになり、その保存運動の結果、1987年と1990年にマサチューセッツ州立大学が購入し、現在は同大学図書館が所蔵しています。1986年マ州立大学図書館福見恭子さんの呼びかけにより、北海道でも「ライマン・コレクション保存協力委員会」を設立し、募金運動を展開して多額の支援協力をしています。


 <参考文献及び参考資料>
・「北海道を開拓したアメリカ人」(藤田 文子著) 新潮選書  ・「お雇い外国人ー開拓」(原田一典著) 鹿島出版会  ・「北海道開拓功労者関係資料収録」(下巻) ・「近代日本鉱業の黎明期と來曼先生」(ライマン先生顕彰録)  ・「ライマン・コレクション展関係資料」 (第41回北海道開拓記念館特別展1995)  ・その他インターネット資料など   ライマン・コレクション保存協力委員会常任委員 関 秀志氏より、多数の貴重な資料提供をいただきました。
<おことわり> 紙面の都合で、ライマンと開拓使との確執、ライマンの失恋問題等は割愛しました




HOMAS<NO、51>(2007,7,26発行)<br>
“ホーレス・ケプロン通り”愛称付与運動の意義
――北3条通りを“ホーレス・ケプロン通り”と呼ぼう!――
明治4(1871)年1月、黒田清隆開拓使次官が渡米し、当時のグラント大統領への要請により、同年7月、67歳の高齢で、かつ、米国農務局長の要職にあったホーレス・ケプロン(1804~1885、マサチューセッツ州出身)が、開拓使顧問として秘書と2名のエキスパートを伴って来日しました。
以後、3年10ヵ月の日本滞在で、北海道全域の測量調査や鉱物資源調査の成果に基づいて作成した “ケプロン報文”こそ、北海道の近代化に向けた開拓の原典となり、多くの内外の関係者の努力と相俟って、開拓使仮学校の設置~札幌農学校の開校、石炭など地下資源の開発、鉄道・道路網や港湾の計画、畜産・酪農の振興、現地の気象に合った畑作の奨励等々の展開をもたらしたことは、周知のことと思います。
大きな功績への感謝と敬意を表すため、2004年11月27日(土)、「ホーレス・ケプロン生誕200年記念の集い」が道庁赤レンガ庁舎会議室で開催されました。これを機に、愛称付与運動の提案者・佐々木晴美氏から、ホーレス・ケプロンの北海道開拓に対する気概と多大な功績を象徴するものとして、開拓使本庁舎(明治12(1879)年1月焼失)に近接する道庁赤レンガ庁舎の前から、かって“開拓使通り”と呼ばれた札幌市の北3条通りの、永山武四郎記念公園付近までの約1キロメートル区間を“ホーレス・ケプロン通り”の愛称をもって呼ぶことにしてはどうかという提案がなされました。
この提案は、現在の“北3条通り”が、開拓使本庁舎の建設と官営工場の設立構想が明治4(1871)年に開拓使によって或る程度固められていたものの、関連器械類の購入を含むホーレス・ケプロンの手配・進言によって創生川東岸地域一帯に整備された当時の近代的な工業ゾーンを結んだ開拓使時代のメイン・ストリートであったことを考慮したものでした。佐々木晴美氏の提案は、参加者の大きな感動と賛同を得て、以後愛称付与推進運動として継続されることとなりました。
その後、提案者・佐々木晴美氏新聞への寄稿(北海道新聞、2005年1月8日夕刊の「私の発言」)に寄せられた賛同者を中心に「道民有志グループ」が結成されました。この「道民有志グループ」、北海道・マサチューセッツ協会、北海道日米協会が連携しながら、道庁赤レンガ庁舎会議室において、“ホーレス・ケプロン通り”愛称付与の意義などについて語り合う「第1回道民フォーラム」(2005年8月27日)、次いで「第二回道民フォーラム」(2006年9月2日)を開催しました。高橋はるみ北海道知事・上田文雄札幌市長の基本的なご賛同をいただき、北海道・札幌市の担当部局と事務レベルでの打ち合わせも進めてきました。
その後、沿道の各町内会・関連団体等の賛同の輪が拡がりを見せるとともに、道庁赤レンガ庁舎前の区間の都市再開発事業も視野に入れた運動として今日に至っています。なお、“ホーレス・ケプロン通り”の愛称付与対象区間を延伸して欲しいとの声も寄せられており、運動の輪がさらに広がっています。
この愛称付与の意義は、日本近代化に関する歴史的視点・日米関係史の視点からも極めて大きいと思います。さらに、札幌市のまちづくりの観点からも、重視すべきであると考えられます。
このような認識のもとに、北3条通りを“ホーレス・ケプロン通り”という愛称で呼ぶための道民運動に、より多くの皆様のご賛同と継続的なご参加・ご支援を期待しています。 



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