北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -6-

HOMAS<NO、49>(2006,12,1発行)
今年2006年はエドウィン・ダン来札130周年
-真駒内を拓いたダンの牧牛場とモーテン・ラーセンの有畜農業―


  明治2年(1869)7月、明治政府の開拓使設置により、北海道の本格的な開拓がスタートしますが、明治3年(1870)5月、開拓次官となった黒田清隆は、北海道の開拓や農業経営の模範を米国に求めて、マサチューセッツ州出身の米国農務長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)を開拓使顧問として招聘しました。明治4年(1871)7月来日したケプロンの指導で、早速、東京の青山・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作・家畜の飼育や農業技術者の養成が行なわれます。また、ケプロンは3回にわたり道内各地の視察・調査に来道し、詳細な「ケプロン報文」を作成しています。<この経緯は「HOMAS」 No. 43に詳述>

    真駒内を拓いたエドウィン・ダンの牧牛場と用水路
エドウィン・ダン(1848~1931)は、オハイオ州で牧場経営をしていましたが、ホーレス・ケプロンの指示によるアルバート・ケプロン(ホーレス・ケプロンの息子)の依頼を受けて、明治6年(1873年)7月に米国の進んだ畜産技術指導のために、牛20頭・羊100頭とともに大陸横断の苦難の末来日しました。早速、東京麻布の第3官園で約30人の生徒に北海道開拓に役立つ技術者養成のために実技を主体にした畑作や畜産の技術を幅広く指導したといわれます。明治8年(1875)5月、エドウィン・ダンは、北海道七重(現在の七飯)官園に、5ヶ月の長期出張で来て、農業技術や馬の改良に欠かせない去勢技術の普及に努めました。この期間中、札幌官園、新冠牧場も視察しました。また七重では「妻となるべき女性」ツル(15歳)との出会いがありました。
(後に、国際結婚の難しい手続きを経て、正式に結婚。日本永住の決意を固めたのでした。)
  そして、明治9年(1876)6月、28歳のエドウィン・ダンは、園芸担当のボーマーと共に札幌官園に転勤し、北海道開拓の指導にあたります。直ちに原始林の生い茂る真駒内の地で、牧牛場の建設に着手、搾乳場・乳製品加工場・用水路など、牧場の施設整備に努力しました。このエドウィン・ダンの手により開拓使牧牛場として創設された建物は、その後北海道種蓄場となり、名実ともに北海道の家畜改良や技術普及のセンターとしての役割を果たしてきました。しかし、戦後進駐軍接収のため、新得町に移転しました。
その後、この由緒ある建物をぜひ残したいということになり、昭和39年(1964)に、エドウィン・ダン顕彰会により現在地に移設され、「エドウィン・ダン記念館」として関係資料を展示しました。そして、昭和41年(1966)札幌市に移管されましたが、老朽化のため本格的な改修工事を行い、平成15年(2003)5月リニューアルオープンを機に、地元住民「エドウィン・ダン記念館運営委員会」により運営されることになり現在に至っています。記念公園内には「エドウィン・ダン銅像」(彫刻家 峯 孝氏制作・昭和39年)もあります。
   とりわけ、エドウィン・ダンが完成させた「真駒内用水路」(~明12年・1879年完成)は、真駒内川から取水され、現在の中央公園の池を通り、緑町、曙公園から陸上自衛隊駐屯地を通り、精進川に注ぐ約4kmに及ぶ灌漑用水で、家畜の飲料水・農業用水・水車などにも利用され、真駒内牧牛場地域だけでなく、後には広く、平岸、豊平、白石など広域に用水を供給してきた歴史をもっています。これは北の「創成川」<「大友堀」(慶応2年)・「吉田堀」(明3)・「寺尾堀」(明3)の総称>に匹敵する歴史的価値のあるものです。
この明治9年(1876)7月31日、マサチューセッツ州立農科大学学長ウィルアム・S・クラーク(当時50歳)が、教え子のウィリアム・ホイーラー、ディビッド・ペンハローとともに札幌着任。8月14日、札幌農業校開校となります。これに伴い札幌官園の大半が農学校の農場となったこともあり、エドウィン・ダンも協力して、明治10年(1877)我が国最初の模範家畜房(モデルバーン)を建築しました。これは、今日も北大構内に、重要文化財として保存されています。
  明治10年(1877)ころには、真駒内の牛舎には牛107頭、馬は農耕用・乗馬用あわせて10数頭、豚も40頭くらいいたそうです。当時のエドウィン・ダンは、本府近くの虻田通り(現在の中央区北4西2)の官舎に妻ツル・長女へレン(明10生)と住み、毎日真駒内牧牛場に通っていました。
明治11年(1878)、エドウィン・ダンの提言により新冠牧馬場が整備され、馬産王国北海道の基礎ができたのでした。馬の改良と増殖が進められ、開拓使が米国農法を模範として、 馬を使用する農機具の導入を図ったこともあり、馬による大型機械が普及して、北海道の大規模農業の発展に大きく貢献しました。また、ビール製造用の大麦・小麦・亜麻の栽培、暗渠排水による土地改良なども、エドウィン・ダンの指導によるところ大であったといわれます。(今日も、多くの農機具は、プラウ・ハロー・ホークなど英語名で呼ばれています。また、バター、チーズの製造、ハム・ソーセージの加工、ミルクなどの普及もここからはじまります。)
  明治15年(1882)1月、開拓使の廃止により真駒内牧牛場は農商務省の所管<後に「真駒内種蓄場」(明19)、「北海道種蓄場」(明26)と改称>となりますが、この年、札幌農学校2期生の「町村金弥」(1859-1944)が真駒内牧牛場に勤務して、短期間ではありましたが、エドウィン・ダンの直接指導を受けたのでした。エドウィン・ダンは、この年12月、6年半にわたる北海道滞在に多くの業績を残して、家族と一緒に東京に移りました。さて、その後のエドウィン・ダンは、明治16年(1883)、長年にわたる北海道農業・畜産指導の功績により勲五等旭日双光章を受章しています。米国オハイオ州に一時帰国しますが、明治17年(1884)、駐日米国公史館の二等書記官として再来日、明治30年(1897)まで、外交官として勤務。後明治33年(1900)石油採掘事業を起こし、大正元年(1912)三菱会社勤務。昭和6年(1931)5月15日、東京代々木の自宅で永眠しました。(享年82歳でした。)
こうして、エドウィン・ダンの牧牛場からはじまった真駒内の開拓は、肥沃な土地に恵まれ下町の人々は野菜や果物を作り、また種蓄場に納める牧草や根菜類を作っていたのでした。
  エドウィン・ダンの指導・影響を受けた人に北海道酪農の先駆者となる町村金弥や宇都宮仙太郎、町村敬貴などがいますが、いつか稿を改めて詳述したいと思います。
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  さて、北海道農業も新しい肥沃な開墾地での、無肥料連作を長年続けたために、大正時代に入って次第に地力が落ちてきたといわれます。大正6年(1917)、札幌酪農組合蓄牛研究会と道庁農政担当が中心になって地力回復のための有畜農業の検討をはじめ、「北海道第2期拓殖計画」として、北欧の有畜農法を取り入れることになります。
大正12年(1923)、北海道庁は、デンマーク人農家2戸、ドイツ人農家2戸を5年契約で招聘し、札幌近郊と十勝地区で模範経営を行わせることとしました。
  デンマークでは165名の応募者、ドイツでは8名の候補者の中から、4戸を決定。十五町歩農家としてデンマークのモーテン・ラーセン<33歳・4人家族>(札幌真駒内種蓄場内耕地)、五町歩農家としてエミール・フェンガー<31歳・4人家族>(札幌琴似村農事試験場内耕地)、十町歩農家としてドイツのフリードリッヒ・コッホ<43歳・6人家族>(十勝清水)とウイルヘルム・グラバウ<30歳・4人家族>(帯広)の4家族が招かれました。 


  真駒内に大きな足跡を残したモーテン・ラーセンの有畜農業
モーテン・ラーセンは、18歳から20歳までの間、商船学校に学び世界各国の見聞を広め、英語にもドイツ語にも通じていたといわれます。1916年、北シューランドに大農場を購入して多年苦心の結果、その経営に成功し、養鶏事業にも成功していました。
  モーテン・ラーセン(33歳)は、妻リーモア(32歳)、長男ポール(8歳)、長女エテッド(6歳)の4人家族で助手のペダー・スヨンナゴー(25歳)と一緒に、デンマークを大正12年(1923)7月10日に出発、ドイツハンブルク港より東亜汽船「アフリカ丸」で出帆して、9月12日神戸入港、そして9月19日に真駒内種蓄場に到着しています。
  ラーセン一家は種蓄場の敷地内に北欧風の白い木造家屋を建て、畜舎を作り、農耕馬2頭、乳牛6頭、豚20頭、鶏50羽を飼い、プラオ、カルチベ-ター、ハロー、へーレーキ、播種機、種子選別機なとの機械を使って農業を行ったといいます。この経営状況は真駒内の農家のモデルとなり、農事や家畜改善に大いに役立ったのでした。北海道大学でもそれまでの主穀農業とモーテン・ラーセンの主蓄農業の違いを克明に記録しました。モーテン・ラーセンは働き者で、家族は4人。いつも大きなエプロンを掛けて太って体格の良い奥さんは親しみやすく、助手のスヨンナゴーも温厚質朴な青年であったといわれています。
  近所の人たちは菜園や果樹園の作り方、農機具の使い方などを教わり、野菜や果物の種子をもらって自宅の畑に植え育てるなどの交流があったようです。こうして日本人に親しまれ、有畜農業による地力回復に成果をあげたモーテン・ラーセン一家も、五年の契約を終えて昭和のはじめデンマークへ帰りました。
  そしてこの真駒内地区は、第二次世界大戦後の進駐軍キャンプの接収などもあり、その風景は大きく変貌しましたが、今日もなお、エドウィン・ダンの「真駒内用水路」には水が流れ続けています。また、真駒内五輪記念公園(緑町)には「ラーセン農場跡」の標識が往時を偲ばせています
  <以上、真駒内開拓史第一部とします。「北海道を知る歴史発見の旅シリーズ」真駒内コースの歴史散策で、開拓期から今日までの変遷の歴史の跡をたどりたいと思います。>


 新企画  北海道を知る歴史発見の旅シリーズ ー真駒内コースのご案内ー
 日 時  平成19年5月12日(土)10時~14時30分 (実施予定)
 場 所  地下鉄真駒内駅集合ー桜山(真駒内保健休養林)ーモーテン・ラーセン農場跡(五輪記念公園)ー真駒内用水路(真駒内緑町緑道)ーエドウィン・ダン記念館及び記念公園銅像ー東急レストラン「ミュー」昼食会(解散)
 参加費 会員・学生 2,500円     一 般  3,000円 (昼食代・資料・写真代他)
真駒内の歴史は、明治9年(1876)エドウィン・ダンの牧牛場(後に真駒内種蓄場。北海道庁種蓄場と改称)開設にはじまります。そして「真駒内用水路」の開設(~明12)、山鼻石山間の馬車鉄道開通(明42-大7)、定山渓鉄道開通(大7年―昭44)、モーテン・ラーセン農場の有畜農業(大12-昭2)、円山と並ぶ桜の名勝地「桜山」のお花見(大正~昭和)、進駐軍キャンプによる接収(昭21-昭34)、自衛隊駐屯地(昭34―)、住宅団地造成(昭35)、さらに札幌冬季オリンピック開催による競技場・選手村等建設(昭47)などの歴史的変遷を経て今日に至っています。この真駒内コースの歴史散策で、南区の開拓期から今日までの歴史再発見をしたいと考えています。





北海道近代化の幕あけ-国際交流の原点-


北海道近代化の幕あけ-国際交流の原点      
 HOMAS<NO、50>(2007,3、26発行)

  鎖国日本の蝦夷地警備として、幕府は、津軽藩・会津藩などから、国後・択捉・宗谷に請負人・番人を配備、また箱館奉行所の役人を宗谷場所に出張させるなどして厳重警戒にあたりました。1804年(文化元年)9月、ロシア遣日特派大使ニコライ・レザノフがナデシュダ号で長崎へ入港し、幕府に対して根室の通商許可を要求しましたが、幕府は、約半年後に通商不許可を通告しました。その後、幕府の拒絶態度にいら立ちを強めたロシア艦の度重なる攻撃が続きます。ロシア艦は、樺太大泊・千島択捉・利尻島などを襲い、火を放ち、番人を捕え連れ去ることをくりかえしましたが、1813年(文化10年)、日本側が捕えたロシアの艦長ゴロヴニンの釈放により、日露関係は平静化したといわれます。
  一方、この頃、欧米の捕鯨船が、高価な香料が得られる抹香鯨、ローソク・灯火用の油・機械の潤滑油・鯨鬚など多方面の用途で莫大な利益が得られる鯨を求めて太西洋から太平洋、さらに日本近海にまで出漁するようになります。特に、アメリカ捕鯨船が多かったのですが、イギリス船・ドイツ船・フランス船も次第に漁場を移して、蝦夷地沿岸・千島方面にまでやってきています。そして、薪・飲料水・食糧を求めて、着岸する外国船が年々激増してきました。これに対して、幕府はその後、薪・水・食糧を与えて穏便に退去させるよう指示していましたが、鎖国政策を守る幕府と通商を強要する捕鯨船との間に、いたるところで紛争が起きていたといわれます。 このころ、アメリカの捕鯨船に乗り、日本海での捕鯨に従事し、強い憧れを持ち続けた神秘の国日本への密入国を企てたアメリカ青年がいました。

    神秘の国日本への憧れを抱いたラナルド・マクドナルドの生い立ち

ラナルド・マクドナルド(1824~94)は、1824年(文政7年)2月3日、米国太平洋岸のコロンビア川河口の英国領フォート・ジョージ(現在オレゴン州アストリア市)で生まれています。父アーチボルト・マクドナルドは、1790年スコットランド生まれで、エディンバラ大学を卒業しています。当時、高級品とされたビーバーの毛皮などを主とする英国の毛皮交易会社ハドソン湾会社フォート・ジョージ交易所に勤務していました。特にビーバーの毛皮は貴重品としてきわめて高い価格で輸出され、ことに中国貿易で莫大な利益をあげていたといわれます。会社の交易事業には原住民インディアンとの友好関係が基本になっていたこともあり、父アーチボルト・マクドナルド(当時33歳)は、その地域のインディアン部族・チヌーク族の大首長コム・コムリの次女コアール・クソアと1823年に結婚したのでした。結婚式はインディアンの風習に従った盛大なものだったといわれます。、

 北海道を知る歴史発見の旅シリーズ・マクドナルドの故郷を訪ねるー2007アメリカ西海岸の旅 参加者募集  今回は、北海道歴史発見の旅シリーズ海外篇として、米国西海岸のマクドナルド・三吉(音吉・久吉・岩吉)ゆかりの地を米国「マクドナルド友の会」ジム・モックフォード会長と一緒に訪問すること、札幌の姉妹都市ポートランド市市長表敬訪問をすることをメインとして企画しました。また、ボーイング社・マイクロソフト社なども見学する予定です。
期 日 2007年10月16日(火)~21日(日) <6日間>
日 程 シアトル(ボーイング社工場、マイクロソフト社、他)・アストリア・バンクーバー(マクドナルド&三吉に関わる見学と交流)・ポートランド(市長表敬訪問,他)・ラスベガス(華やかなショーなど)
費 用 280,000円程度 (募集人員15名)    <詳細は「集要項」をご請求・ご覧下さい。>




  翌年2月3日、ラナルドが生まれ、約1ヶ月後に、母コアールは病死しています。ラナルドは祖父コム・コムリのもとに預けられ、母の姉カー・カム・カムに育てられています。
その1年後、父アーチボルトは転勤して、スイス人とインディアン・クリー族との混血ジェーン・クラインと再婚し、ラナルドを引き取ります。ジェーンは優しい人で実の子と分けへだてなく養育したといわれます。
  ラナルド9歳の時、父アーチボルトは、フォート・ヴァンクーバー(現在のオレゴン州、アストリア市の東約120km)の交易主任として栄転し、ラナルドは初めて学校(1933~1934)に入ります。2年後、ラナルドはさらに上級教育を受けるため、両親と別れて、レッド・リヴァー・アカデミー(現在カナダのマニトバ州ウイニペグ)で4年間過ごし、優秀な成績で卒業しています。ラナルドが伝え聞いていたかどうかははっきりしませんが、その頃ハドソン湾会社では、三人の日本人漂流民の風貌がインディアンに似ていたこともあり、話題になっていたのでした。
  チヌーク族には、「祖先は遥かな海の西の彼方から来た」という伝説があり、ラナルドも子どものころから亡き母親のルーツは太平洋の神秘の国、ニッポンだと信じ、憧れを持っていたといわれます。・・・1834年、米国西海岸フラッタリ岬に漂着した音吉、久吉、岩吉という三人の日本人漂流民が、最初インディアンの奴隷にされますが、ハドソン湾会社によって保護され英語の教育を受けることになります。この3人の日本人若者が、とても頭脳がよく勉強熱心で礼儀正しかったので、日本は高度な文明国らしいと推測されていました。卒業後、15歳(1839)のラナルドは、父のすすめでエリー湖北岸カナダのセント・トーマスのモントリオール銀行に見習いとして就職します。セント・トーマスは、それまでのインディアン混血児の多かった地域とは異なり、白人の町でした。ラナルドは、白人社会の中で、自分が混血児であることにより決定的な侮蔑の対象になっていることを知り、強い衝撃と堪えがたい苦悩を覚えます。父親にも相談しますが、かえって白人社会との厚い壁がゆるがないものであることをあらためて知らされます。ラナルドは、銀行員見習期間2年の半ばにして、セント・トーマスを去ります。
 ラナルドは、カナダの白人社会での苦悩を耐え忍ぶよりは、広い世界でもっと自由に活動したいと願ったようです。1841年、ミシシッピー川を下る蒸気船の甲板員となり河口のニューオーリンズへ行きます。17歳のラナルドは、船員として生活したいと考え、ニューヨークに出て港湾作業に従事して働き、その後は、船員としてロンドンから出航して、インドのカルカッタで胡椒を荷積みする船、アフリカ西海岸から奴隷を積みこんでアメリカ大陸へ向う船などに乗り組むなどさまざまな経験をしています。その後、ニューヨーク港で、捕鯨船プリマス号( 3本マスト・425トン )の甲板員に雇ってもらいます。船は、1845年12月6日、ニューヨークを出航、操業をしながら、南米最南端ホーン岬をまわって、ハワイ諸島の港に寄港して、1847年1月20日ハワイのホノルルに入港します。


  インディアンの先祖の国・・・ラナルドの日本への憧れ
  ラナルドは、船乗りたちが日本を神秘の国、東洋のユートピアと称しているのを知り、また他国人の血のまじらない純粋な血を受け継いできた民族で、欧米の強国を相手に少しも動ずることのない誇り高い島国として、日本への思いをひそかに内部に蓄積していったようです。
  1845年( 弘化2年) 3月15日、米国捕鯨船マンハッタン号が、日本近海の鳥島で漂流していた阿波国撫養港(徳島県鳴門市)の大型廻船幸宝丸の11人を救助し、さらにその翌朝、漂流していた釜石港の千寿丸の11人を救助して、4月17日浦賀港に入港、20日に日本に上陸させています。薪・水・食料・謝礼の品を受け取り21日に出港しています。この時、浦賀に滞在したクーパー船長は幕府と交渉をもった(通訳は、オランダ通詞森山栄之助)最初のアメリカ人といわれます。この時は、幕府は漂流民の上陸を許可しましたが、「今後はオランダ・中国以外からは一切受け入れない」というオランダ語の文書をクーパー船長に渡しています。このような経緯が、後にハワイに戻ったクーパー船長の談話として、捕鯨船の海員誌 「ザ・フレンド」(1846年2月) に「クーパー船長日本訪問談」が掲載されていました。ハワイで捕鯨船に乗り込むのを待っていたラナルドは、この記事のことを知り、はじめて日本についての詳しい情報を得て、いよいよ、真剣に「日本へ行きたい」と考えるようになったのではないかと推測されています。日本へ行くにはどうすればよいかと考えて、日本近海の漁場にむかう捕鯨船を探します。そこで、ラナルドは日本へ行く準備として、英語の辞書・文法書・イギリスの歴史書・世界の地理書などを買い整えました。日本で、自分を教養のある人間として英語の教師として雇ってもらうことを強く期待していました。そして、プリマス号のエドワーズ船長に再会して、雇用契約を結び、航海の計測に必要な四分儀と航海暦も買い求めて、日本近海への出航に備えていました。


 参考 アメリカに最初に上陸した3人の日本人、音吉・久吉・岩吉<三吉>の数奇な運命
1832年(天保3年)11月11日、鳥羽から江戸へ向かって米や陶器を積んで出港した「宝順丸」(現在の愛知県知多郡美浜町小野浦の樋口源六の持船)が、遠州灘で大暴風雨に遭遇し、約14ヶ月太平洋上を漂流の末、1834年3月、米国西海岸、現在のワシントン州のフラッタリ岬に漂着しています。乗組員14名中、音吉(14歳)、久吉(15歳)、岩吉(28歳)の3人だけが生存していました。この若者3人は、アメリカに上陸した最初の日本人(ジョン万次郎よりも7年前)といわれますが、その後、数奇な運命をたどることになります。最初、現地のインディアンマカ族に捉えられ奴隷にされますが、幸いにもハドソン湾会社の現地責任者ジョン・マクラフリンに助けられて、フォート・バンク―バーで宣教師から英語教育を受ける機会を得ました。その後1835年6月、イギリス船イーグル号でハワイ、ロンドンを経由して日本へ送還されることになりました。マクラフリンは、漂流民を日本へ送り返すことによって、英国と日本との交易のための開国交渉を期待していたようです。途中マカオに滞在して、ドイツ人宣教師の聖書の日本語訳を手伝って1年がかりで完成させています。1837年アメリカ船モリソン号で帰国しようとしますが、浦賀・鹿児島で幕府軍の砲撃を受けて鎖国日本への入国を果たせず、再びマカオへ引き返しています。
彼等はその後、永年マカオに住みますが、音吉は上海に移り住んで、1843年(26歳の時)イギリスのデント商会に就職、イギリス人女性と結婚します。絶えず漂流民の日本帰国を援助したといわれます。音吉は、イギリス海軍の通訳として、2度(1849年浦賀、1854年長崎)、日本を訪れています。しかし、妻子もあり帰国の意志はなかったようです。1854年日英和親条約の締結には通訳者として大いに貢献しました。彼は、この時すでに英国市民権も得てかなり裕福な生活をしていました。その後イギリス人妻が病気で亡くなり、後にマレー人女性と結婚し、1862年シンガポールへ移住。1864年、音吉はジョン・マシュー・オットンとしてイギリスに帰化(日本人最初)。その3年後の1867年1月19日、49歳で波乱に満ちた生涯を終えました。シンガポールブキティス地区のイギリス人墓地に埋葬されています。
(注)バンクーバー国立史跡公園内に 「三吉顕彰記念碑」(1889年8月建立)が日本ボーイスカウト兵庫連盟から寄贈されています。




1947年秋、プリマス号はハワイを出航、マリアナ諸島・グアム、バタン島、香港を経由して日本近海に向かっています。1848年(嘉永元年)3月から6月にかけて日本海で捕鯨を続けながら樺太西方の海まで北上します。ラナルドは遥かに遠く波間にかすむ、神秘の国日本の島影に胸の高鳴りを覚えます。6月27日、ラナルドは、長年練ってきた潜入計画を実行に移す決意をし、船長との約束に従って譲り受けたボート(リトル・プリマス号)に書物・文房具・食糧・衣類・四分儀などの荷物を積み込み、いよいよ日本国の小島を目ざして、母船を離れました。


 ラナルド・マクドナルド日本上陸・・・・焼尻・利尻・宗谷・松前そして長崎へ
  ラナルド・マクドナルド(24歳)が最初に焼尻島に上陸したのは、1848年(嘉永元年)6月27日でした。彼は高台に登って、この島を無人島と判断しました。数日滞在の後、漂流を偽装するためにわざとボートを転覆させて、7月1日に利尻島上陸を目ざしました。そして、翌日2日朝、計画通り漂着を装って利尻島上陸に成功した彼は、捉えられはしたものの、アイヌや番人の人びとから食べ物・衣服・寝具の提供など丁重な扱いを受けたといわれます。中でも利尻運上屋(交易所)の番人タンガロ(多次郎)とは言葉を教えあいお互いに親密な友情を覚えるまでになりました。やがてタンガロに伴われて7月下旬宗谷勤番所に送られます。そして、7月26日宗谷を出帆しますが、風向きが悪く15日間もかかってやっと8月10日に松前に入港し、北方の江良町村に護送されます。松前藩では、ラナルド・マクドナルドの長崎護送について慎重な準備をすすめます。幕府の沙汰を待って、9月5日松前藩の御用船「天神丸」に乗せられて、松前を出帆し、日本海岸ぞいに南下しました。
  順風を受けて9月16日に長崎港に到着しています。まず、長崎奉行所の取り調べを受けた後、奉行所に近い大悲庵(崇福寺末庵)を改装した座敷牢に収容されますが、良い待遇を得ています。接見した長崎奉行井戸対馬守は、マクドナルドの誠実な人柄や教養の深さを知り、彼が英語教師として適任であると考え日本人通詞の指導を依頼したのです。この頃の国際情勢としてはオランダ通詞だけでなく英語通詞の養成が急務とされる事情がありました。こうして、日本最初の英語教育が行われることになりました。生徒は、奉行所から選ばれた、森山栄之助(1820-1871、当時28歳)ら14名のオランダ通詞でした。マクドナルドは座敷牢の格子を隔てて、約7ヶ月間通詞たちに英語を教え、自らも「英和単語帳」を作るなどして、熱心に日本語の勉強をしたといわれます。マクドナルドの「日本回想記」によれば、これら14名の生徒は、頭がよく理解が早かったそうで、最前列に座っていた森山栄之助(1853年ペリー来航時の幕府の大通詞)は、最も優秀であったようです。これらの通詞たちは、幕末から明治初期にかけて、日本の開国にむけて貴重な存在として活躍することになります。このように、マクドナルドの苦心の入国は幸いにも徒労に終わらなかったのですが、密入国者として10ヶ月ほど監禁状態で過ごした後、長崎から退去させられます。

丁重な待遇を受けた日本に「soinara」(日本語のサヨナラ)・・・ラナルド帰国・放浪の人生
 

  1849年(嘉永2年)4月26日、長崎に入港していたアメリカ軍艦プレブル号に他のアメリカ漂流民13人とともに引き渡され、帰国することとなりました。日本での日本人のマクドナルドの扱いは、終始丁寧なものでした。それは、マクドナルドが非常に礼儀正しく教養のある人間として遇され、彼自身も日本語の勉強に熱心であり、日本を深く理解しようとしていたからです。マクドナルドは、後年、長崎の監禁生活中の「日本最初の英語教師」の体験を誇りと満足をもって終生忘れることの出来ない思い出としてふりかえっています。
 マクドナルドは、プレブル号のグリン艦長に、日本滞在の供述書を提出しています。(これが米国国会上院の公式記録として残ることになります。)日本退去後のマクドナルドは、上海・マカオ・シンガポールなどの寄港地を経てインド洋上マドラス沖で難破するなど多難な航海の後、オーストラリアメルボルン近くの金鉱掘りに従事するなど放浪を続け、1853年1月、29歳の時に帰国しています。すでに父はなく、義弟との牧場経営や、鉱山業に関わる仕事を転々としていたようで、1860年代半ばから80年代半ばまでのことははっきりしていません。この間に、マクドナルドは、かつてセント・トーマスで体験したような激しい人種差別をもう一度味わされたのではないかと推測されています。彼は「ひどい幻滅」を感じて、親族や友人とも音信を絶ち、自らの殻にとじこもり、転々と職や住居をかえていたと思われます。1882年ころになって米国ワシントン州に移り、その後、フォート・コルヴィルに定住しています。そこに粗末な小屋を建てて住み、旧友マクラウドとの交友も復活して、彼の手許に保管されていた自分の日本滞在当時の覚え書などをまとめて出版することに情熱を傾けるようになります。しかし、マクドナルドの晩年の情熱は報われることなく、彼は「日本回想記」の出版を見ないで1894年8月5日、米国ワシントン州トロダの近くで、70歳の生涯を閉じたのです。彼は、姪ジェンニー・リンチの腕の中で「サヨナラ、マイディア、サヨナラ」と日本語でつぶやいて永遠の眠りについています。
 マクドナルドの生涯は、人種差別の負い目を背負っての12年間の世界放浪と、20年間にわたる国内放浪を経験した後、生まれ故郷にもどり、あらためて自分の「世捨人の殻」を破り、晩年になって自らの人生のハイライトの部分を再確認したかったのだと思われます。


 ① ラナルド・マクドナルド「上陸記念トーテムポール」 ( 焼尻島白浜海岸 )
 昭和62年6月27日設置
② ラナルド・マクドナルド顕彰碑 ( 利尻富士町鴛泊字野塚 )平成8年(1996)10月23日建立
* 利尻町立博物館・マクドナルドに関する展示コーナー ( 利尻町仙法志字本町 )  
③ 史蹟 「宗谷護国寺跡」 ( 稚内市宗谷 )
④ ラナルド・マクドナルド顕彰之碑 ( 長崎市上西山町松森神社脇 )  
平成6年(1994)11月11日建立)
⑤ ラナルド・マクドナルド墓地記念碑
 ( 米国ワシントン州 トロダ、Ranald McDonald’s Grave State Park )
⑥ ラナルド・マクドナルド生家および記念碑 ( 米国オレゴン州 アストリア ) 
 1988年5月21日建立
  ⑦  チヌーク族大酋長の墓・マクドナルドの祖父の墓 ( 米国オレゴン州 アストリア )
⑧ インディアンチヌーク族の伯母さんの像(イルチー像) 
(米国オレゴン州 バンクーバーのコロンビア川沿い)
■ 日本マクドナルド友の会(会長・富田虎男立教大学名誉教授、事務局長・西谷栄治利尻町立博物館学芸係長)「マクドナルド通信」発行
■  米国マクドナルド友の会 ( 現在会長は、ジム・モックフォード氏 )( 創立は、富田正勝エプソンポートランド社長故人・元アストリア図書館長ブルース・バーニー氏ら )  1988年(交 流) 
*1998年9月、マクドナルド日本上陸150年を記念して、米国マクドナルド友の会メンバー5名が来日し、利尻・松前・長崎 (長崎マクドナルド゛友の会) などゆかりの地を訪問。中野 昭氏、フレデリック・ショット氏 他
*1999年6月、日本マクドナルド友の会事務局長・西谷栄治氏、米国オレゴン州 アストリアの生地やワシントン州 トロダの墓地などを訪問。
(英語教科書にも採用される)
啓林館高校英語教科書1年用教材  
Lesson 1     「Crossing the Bridge between Language」
同 中学校英語教科書3年用教材
 Reading for Pleasure 「The First English Teacher in Japan」  





 

 <参考文献及び参考資料>
・マクドナルド「日本回想記」(富田 虎男訳訂)刀水書房    ・「海の祭礼」(吉村 昭著)文春文庫
・「黒船前夜の出会いー捕鯨船長クーパーの来航」(平尾信子著) NHKブックス ・羽幌町焼尻支所資料 
・利尻町立博物館資料(西谷栄治氏提供)   ・稚内市史資料  ・松前町史資料(田中建一氏提供)  
・長崎歴史文化博物館資料(松尾 晋一氏提供) ・長崎南ロータリークラブ資料  ・城陽市国際交流協会資料  ・日本ボーイスカウト兵庫連盟資料  ・北海道新聞記事  ・読売新聞記事、 ・その他インターネット資料など





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