北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -28-

HOMAS(NO.73)2014.12. 10発行
優れた蘭医・西洋医学を極めた関寛斎の生涯と業績 

― 72歳にして北海道開拓を志す・・・・斗満(現在の陸別)開拓10年の軌跡 ―

■ まえがき
  関 寛斎(せきかんさい)<1830年・文政13-1912年・大正元>は、上総国(千葉県)の生まれ。佐倉順天堂で漢方医学を修めた後、長崎養生所で西洋医学を学び、徳島藩医となります。戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院頭取を勤めますが、明治になって、徳島病院長、山梨病院長などを歴任、1873年(明6)徳島で町医者となり、長年貧民施療に尽力します。
  そして、1902年(明35)72歳の時、北海道開拓を志し、四男又一とともに斗満(とまむ)原野(現在の陸別)に入植し10年間の労働と医療にあたりました。牛首別(現在の豊頃)の報徳思想を実践する開拓結社「興復社」農場を視察し、二宮尊親(二宮尊徳の孫)の強い影響を受けて、自作農育成のための理想的な農牧村落の建設を目指す「積善社」を設立します。寛斎は1912年(大正元)陸別で没しますが、死後、4,000ヘクタールを超える広大な農場のほとんどが小作人に解放されたといわれます。今日、陸別町では、陸別開拓の祖としてその功績を称えて、銅像・記念碑・資料館や記念公園など建設しています。また、その偉業に敬意を表して、陸別国民健康保険病院は、「関寛斎診療所」と名付けられています。今回は、この「関寛斎」にスポットを当ててみたいと思います。

■ 関寛斎の家系と生い立ち
  関寛斎(せきかんさい)は、1830年(文政13)2月18日、上総国、九十九里浜に近い山辺郡中村(現東金市東中)の裕福な農家吉井左兵衛・幸子の長男として出生。幼名豊太郎。3歳で母に死別、しばらくは祖父母に養育されますが、関家(関年子は母幸子の姉)に養われ13歳の時、関俊輔(素壽)・年子の養子となります。養父俊輔は、もと君塚家の長子でしたが、百姓ながらも幼い頃から周囲が瞠目するほど聡明で、他家の養子となり「関俊輔」と名乗っていました。「製錦堂」という私塾を開き多くの子弟に読み書きを始めとする学問を教えていました。豊太郎(寛斎)は、早くからこの「製錦堂」で儒学・処世訓などを学んだといわれます。
  1848年(嘉永元年)18歳の時に、医学習得をめざして佐倉順天堂に入門します。この医学校に最初に納める年六両という大金は、寛斎の生家である吉井家と関家で折半して用意しましたが、あとは自力で苦学しながら、佐藤泰然について蘭医学を学んでいます。
佐藤泰然(1804-1872)は高野長英などから蘭学を学んだ蘭方医で、1843年(天保14年)に日本最初の医学校兼私立病院「順天堂」を開いています。佐藤泰然の佐倉「順天堂」は、大阪の緒方洪庵の「適塾」と並ぶ当時の二大蘭学塾といわれています。優れた医者であるとともに人格者であった泰然は、このとき以来寛斎の生涯の師となります。
  佐倉順天堂には、西洋医学を学ぶために、全国から裕福な武家や医師の子弟が集まっていたといわれます。寛斎は、泰然のもとで玄関脇の一室で寝起きして、屋敷内の清掃から家族の世話までを引き受けて、その合間に医学の手ほどきを受けたといわれます。周囲からは「乞食寛斎」などと呼ばれて随分と苦労したのでした。順天堂に学んだ4年間、尋常ならざる努力で、寛斎は師の泰然に一目も二目も置かれ、泰然が日本初の膀胱穿刺術を行う際もその助手を務めています。このように臨床に従事する傍ら、当時の施術や患者の様子を記録した「順天堂外科実験」を著しています。また「種痘」も広く施しています。この時期、寛斎はさらに林洞海、三宅良斎にも学んでいます。<1849年(嘉永2)19歳の時、関寛斎と改名(名務、字致道)。後1870年(明治3)、寛(ゆたか)と改名、晩年は寛と称しています。>
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 関 寛斎 家系図

■ 郷里前之内~銚子時代
  1852年(嘉永5)、父俊輔の強い希望もあり、順天堂での4年間の修業を終えて帰郷します。その12月25日、両家の親の取り決めた寛斎と君塚あいとの祝言があわただしく執り行われました。関寛斎22歳。君塚あい17歳。寛斎の生家の吉井家と君塚家、それに関家の縁者が駆けつけて賑やかに行われたのでした。
  君塚あい(1834-1904・明37、6,20)は、寛斎と同郷の上総国山辺郡の前之内村で、君塚左衛門・コトの三姉妹の末子として生まれています。「君塚家」は、九十九里平野の中ほどに位置する温暖な地で、代々農を営む家で、読み書きに明るい当主が続いて百姓代として村の運営にも関わったため、前之内村では一目置かれる存在だったといわれます。あいは、幼い時から機織りの仕事を器用にできたようです。関俊輔は、左衛門の兄にあたり、俊輔・年子は、あいの伯父伯母にあたります。
  寛斎は、郷里前之内村に帰ってすぐに、医院を仮開業しますが、ほとんど患者がなく、佐倉順天堂まで出かけて様々な外科手術に立ち会ったり、師に代わって執刀したりすることが多かったようです。また診察室にこもって、「順天堂外科実験」の記録を整理したりしたようでした。
  寛斎は、妻あいとの間に8男4女を儲けていますが、夭折・病死が多く、5男2女が育っていますが、まず、1854年(安政元)2月6日 長男生三(幼名初太郎)誕生します。
  1856年(安政3) 寛斎26歳あい21歳。2月15日 泰然の推挙により銚子荒野村(現在の銚子市興野)に移転開業します。銚子では、「関医院」の看板をかけたその日から患者が押し寄せて多忙を極めたといわれます。そして1858年(安政5)2月16日長女スミが誕生しています。

■ 恩人濱口儀兵衛(梧陵)との出会い
  寛斎は、この地で濱口儀兵衛(梧陵)(1820-1885)と出会い、梧陵の勧めで、江戸に出て大流行のコレラの治療と予防対策を研究して、銚子に帰り防疫に努めました。幸い佐倉・銚子では大惨事にはならずに流行は終わったといわれます。濱口梧陵は、ヤマサ醤油7代目社長、人材育成や社会事業に関心を持ち大きな貢献をした人物で、この出会いは寛斎の後の運命に大きく関わることになります。
  濱口儀兵衛(梧陵)(1820-1885)は、1820年(文政3)6月、紀州有田郡広村(現広川町)生まれ。本名文則、通称儀兵衛、号梧陵。幼くして父を亡くし、12歳にして本家の浜口儀兵衛商店(現ヤマサ醤油醸造)(銚子)に迎えられて醤油醸造の見習いを始めます。浜口家は、銚子(千葉県銚子市)に醤油醸造業を、さらに江戸に金融業を営む豪商ですが、家訓として、主人であっても少年時代に安逸な生活が許されず、困苦に耐える精神や人を率いる方法を会得するため、丁稚や小僧と寝食を共にすることを慣例としていたといわれます。
  梧陵は、同時に文武の修業に励み、特に三宅艮斎(みやけごんさい)に師事して西洋事情を学ぶや国家意識に目覚め、海防問題に強い関心を持つようになります。1853年(嘉永6)家督を継いで七代目浜口儀兵衛となります。代々の儀兵衛は紀州広村と銚子を往復して家業の経営を本業としています。
1854年(安政元)11月南海道大地震の際、梧陵は広村に滞在中で、「稲むら」(稲束を積み上げた稲塚)に火をつけて大津波から村民を救ったことは広く知られています。(これは、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が短編集の中で「Living god生ける神」として紹介、後に「稲むらの火」として昭和16年小学校国語読本に採用されます。「稲むらの火の館」(和歌山県有田郡広川町)が平成19年(2007)4月22日、記念館として建設されています。) 
  1855年(安政2)から4年がかりで、郷里広村に高さ5m、幅20m、長さ600mの大防波堤を完成させています。(広川町では毎年11月3日に堤防を築いた悟陵らの偉業とその徳をしのび、「津浪祭」が行われています。) また借家を建設して困窮者に無償で貸与するなどしています。
  梧陵は、人材育成を重視・教育事業にも尽力。開明的豪商として知られます。1866年(慶応2)、 私塾「耐久社」(現耐久高校の前身)を設立しています。また焼失した江戸の種痘所も再建しています。  
梧陵は、幕末から明治初頭にかけて、さまざまな公職を歴任し、1879年(明治12)第1回県会議員に当選、初代県会議長に就任しています。若いころからの念願であった欧米視察で、1884年(明治17)アメリカに旅立ち、翌年(明治18)4月21日視察の途中、ニューヨークで死去。66歳。(お墓は和歌山県有田郡広川町山本にあります。)アメリカでは、ウスターソースの製法を調べていますが、随行者がそれを日本へ持ち帰り、後に8代目儀兵衛がヤマサソースとして売り出しています。
 【梧陵格言】 財は末なり,信は本なり,よろしく本末を明らかにすべし。

■ 梧陵の勧めにより長崎へ
  1860年(万延元)3月29日二男大助誕生。寛斎は30歳。幕府は、黒船来航により、鎖国体制に終止符が打たれ、海防の整備を急務として、長崎に「海軍伝習所」を設けて軍艦の購入と操縦の指導者派遣をオランダに依頼します。1857年(安政4)入港した軍艦ヤバン号(後の咸臨丸)によりオランダ海軍の青年軍医ポンペが来日したのでした。
  この、ポンペ・ファン・メーデルフォルト(1829-1908)は、幕府の要請により1857年(安政4)海軍伝習所の教官として長崎に招かれたのでした。ポンペによりわが国西洋医学の系統的教育の新時代が開かれたといわれます。ポンペは幕府に要請して「長崎養生所」(1861年・文久元年~)を開設します。これは我が国最初の近代的様式病院で、医学所も併設しており、学生たちはここで医学の基礎課程をマナビ、養生所で臨床医学を実施に学びました。養生所初代頭取は幕臣で最初の医学生であった松本良順でした。また臨床教育用の洋式付属病院も開いています。

■ 帰郷後、徳島藩医へ
  1862年(文久2)32歳の春、一年余りで銚子に帰郷して開業しますが、この年12月1日、徳島藩医に招かれ、翌年33歳 徳島藩主の蜂須賀斉裕(なりひろ)の国詰侍医の道を選び、1月江戸を出発し、5月徳島城に出勤しています。6月7日三男周助誕生。年末郷里の戻り、銚子旧宅を整理して、翌年4月、寛斎一家の行李五十三個に及ぶ家財道具を船便で送りますが暴風のために船が難破してすべてを失います。この時も梧陵の援助を受けています。1864年(元治元年)10月23日四男文助誕生(翌年1月16日夭死)。1867年(慶応3)4月二女コト誕生(1889明2、7,20二歳で夭死)。
  1868年(慶応4)38歳。1月、寛斎を引き立ててくれた藩主蜂須賀斉裕侯が急逝。そして鳥羽・伏見の戦いが始まります。4月には三条実家に随行して江戸に出て、戊辰戦争に軍医として参加。上野彰義隊の変の負傷者治療に当たり、後に奥羽出張病院頭取を命じられて、漢方医達の指導を行いながら負傷者の治療に当たり、その記録「奥羽出張病院日記」を著しています。この軍陣医学(外科治療)の功績が高く評価されて太政官より100両を贈られますが、栄達の道を捨てて再び徳島へ帰ります。
1869年(明治2)2月28日五男末八誕生。3月徳島医学校創設して校長に就任。また藩病院の開設など医師の育成事業にも尽力しています。 翌年には、徳島藩巽浜医学校教授治療所長となりますが、不幸な出来事や宮仕えの苦しさなどから、退職して一度徳島を去ります。
  1871年(明治4) 4月15日、三女トメ誕生。(11月長女スミ、浜文平と結婚)12月海軍省に出仕海軍病院勤務。翌年山梨県甲府病院長となり、地域医療の充実に努めます。しかし1873年(明治6) 43歳の時、再び徳島に帰り、徳島住吉島村で一開業医となり、翌年徳島裏の丁に移住。士籍俸禄ともに奉還して一平民となります。以後約30年間この地に住んでいます。この間、四国・九州などの各地を旅して旅行記を出版しています。(1874年(明治7)2月25日二男大助14歳で夭折。) 6月12日六男餘作誕生。(8月25日五男末八5歳で夭死。)
徳島では、寛斎広大な医院と屋敷を構えていました。各地からの多くの門弟を抱え、多くの患者が詰めかけたため、屋敷前の道が「関の小路」と呼ばれたといわれます。寛斎は、急患があれば、距離や時間を厭わずに出かけ、貧しい人からは一文も取らなかったそうです。そのため、無料患者の数が多く、「関大明神」と崇められたといわれます。1876年(明治9)4月25日 七男又一誕生。 1877年(明治10)11月13日 八男五郎誕生。1881年(明治14)2月8日 四女テル誕生(1895明28、9,10 13歳で夭死)。
  寛斎は毎日、朝は4時に起きて散歩。朝食の味噌汁に牛肉を入れるなど栄養十分の食事をとり、門弟や女中使用人にも同じ食事をさせたのでした。夜は8時に就寝するという規則的な生活を続けました。趣味は謡。それに69歳になって小鼓の稽古もはじめています。また旅行も好きで,所用で大阪・東京へ出た時には大和や日光へ足を延ばし、四国・九州の各地も旅して旅行記を出版しています。
  1884年(明17)11月 三男(後次男)周助渡米(200円送金)―後、米国の大学へ。1885年(明18) 恩人の浜口梧陵が旅先ニューヨークで客死。遺骸が出身地の紀州に戻ってからは、年に二度、墓参のために紀州を訪ねています。 <1896年(明29)寛斎66歳の時、1月30日 長女スミが心臓発作で急死(38歳)しています。>

■ 又一の北海道開拓事業
  1892年(明治25)62歳。四男又一札幌農学校に入学。1894年(明治27) 又一は、北海道庁移民奨策励により石狩郡樽川植民地原野20ヘクタール(町歩)(6万坪)の貸付を受けて開拓に着手、関農場として、小作人を使用して108ヘクタールにまで拡大しています。 
また、又一の札幌農学校入学に際し徳島から北海道へ同行した片山八重蔵・ウタ夫妻が、又一を助けて開拓の鍬を振るっていました。1896年(明治29)、寛斎北海道視察。明治30年には、「北海道国有未開地処分法」施行、百五十万坪を上限として、10年以内に開拓すれば無償払下げとなりました。寛斎は、1898年(明治31)68歳7月、再び北海道視察に出かけています。
  1899年(明治32)1月4日 古稀(数え年70歳)の祝いで、家族を始め、離れて暮らす息子たちや医学校時代の教え子、地元の名士などが大勢集まり大盛会となりました。そして1901年(明治34) 寛斎71歳・あい67歳、金婚祝賀を受けます。寛斎は金婚の祝いで、あいとともに郷里の上総を訪ねています。1901年(明34) 又一は、北海道の奥地十勝~釧路にまたがる斗満原野と上利別1,011ヘクタール(約306万坪)の貸付許可を得て開拓の準備に入ります。またこの年「十勝国牧場設計」という卒業論文を書き上げて、斗満原野の地形や自然がいかに牧場に適しているかという詳細な12年開拓計画を立てています。この年、又一が札幌農学校を卒業すると、さらに奥地の斗満原野1,377ヘクタールの貸付を受けています。

■ 寛斎の渡道~斗満への入植
  寛斎は、いよいよ北海道原野開拓を決断し、家財を整理して開拓資金としました。渡道に先立ち、寛斎とあいは母屋を出て、米蔵に莚(むしろ)を敷いて、鍋一つ茶碗二つだけで食事を作って食べ、風呂にも入らないで莚に包まって眠るという開拓生活の練習を何日も繰り返したといわれます。そんな夫妻の様子に、名医関家の評判は落ち、破産したという噂まで広まったといわれます。
  1902年(明治35)4月14日、寛斎(72歳)とあい(67歳)は、徳島を出発して船を乗り継いで、5月14日ようやく小樽に上陸します。そこから汽車で札幌に到着。まず。寛斎が斗満入植に際して用意した札幌郡山鼻村の仮住まいの家に落ち着きます。翌日から寛斎と又一は、山鼻の自宅から樽川農場へ朝早く出かけて夜遅くに帰るという生活がはじまりました。あいは、長旅の疲れもあり農仕事は無理ということで、家事万端を取り仕切ることになりました。斗満原野の開拓が軌道に乗るまでは、この樽川農場の収入が大事でした。6月末に又一が斗満へ向かいます。7月には、岡山医学校の三男餘作と東京の大学の五男五郎も札幌へ寛斎を訪ねてやってきます。8月5日には、寛斎と三男餘作が、片山夫妻(49歳と41歳) を案内人として斗満視察に出かけます。
  すでにこの片山夫妻が先陣となって、樽川から斗満原野まで馬を引き、原始林で熊や蝮、蚊や虻などと戦いながら、アイヌの協力も得て巨木を掘り起こして開拓の基礎を築いてくれていたのでした。連れて行った4頭の馬も21頭にまで増えていました。
  ところで、寛斎は、医者としての社会的地位もあり、経済的にも満ち足りた生活の中で、どうしてすべてを投げ捨てて、北海道開拓の覚悟をしたのでしょうか。寛斎自身が「創業記事端書」(1910明43)の中で次のように書いています。

  明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、児輩の勧めにより金婚式の祝いを心ばかりを挙げたり。然るにかかる幸福を得たるのみならず、身体健康、且つ僅少なる養老費の貯えあり。此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本文たらざるを悟る事あり。曾て豫想したる事あり。
  夫れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫の空なるとは、世評の最も唱ふる處たり。依って我等老夫婦は、北海道に於ける最も僻遠なる未開地に向ふて我等の老躯と、僅少なる養老費とお以て、我国の生産力を増加するのことに當らば、国恩の萬々分の一をも報じ、且つ亡父母の素願あるを貫き、霊位を慰するの慈善的なる學事の基礎を創立せん事を豫め希望する事あるを以て、明治三十五年徳島を退く事とせり。
  然るに我等夫婦は此迄医業を取るのみにて、農牧業に経験無きを以て、児輩及び親族より其不可能を以て思い止むべきを懇切に諭されたるも、然れども我等夫婦は確乎と決心する所あり、老躯と僅少なる資金と本より全成功を得べからざるも、責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以て草木を養ひ、牛馬を肥やすを方針とするのみ。
   成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。故に徳島を発する時は、其困苦と労働と粗喰と不自由と不潔とを以って、最下等の生活に當るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉に莚を敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗食不潔の習慣を養成せり。   

  札幌に戻って数日後、三男餘作と五男五郎はそれぞれ大学へ帰ります。寛斎とあいは、毎日、山鼻の家から片道3時間半をかけて樽川農場まで通ったのでした。しかしこの年は、収穫前の早霜で農場の作物はほとんどダメになり、売り物にならない僅かのものを穫り入れたのでした。斗満の関牧場も厳しい状況でしたが、それでも牛は7頭、馬は52頭にまで増えていました。
  翌1903年(明治36)3月。大学を卒業した五郎が東京を引き上げて札幌へやってきます。(この年は、又一が志願して一年の騎兵隊兵役についています。) 寛斎は5月20日斗満へ発ち、9月末に札幌に戻っています。この秋、樽川農場は豊作。斗満の関牧場も初めての収穫があり、馬95頭、牛10頭、畑地4町歩・牧草地20町歩の開墾の成果を得ました。この年寛斎とあいは、渡道して初めて晴れやかな気持ちで年を越すことができたのでした。1904年(明治37)正月26日、氷点下36,8度という厳寒の朝、あいが心臓発作で倒れますが、寛斎の必死の治療で翌朝には危機を脱します。2月になって除隊した又一が、この大寒波で斗満の馬を40頭も死なせてしまったとの知らせを聞いて、急いで淕別(陸別)へ向かいます。この4月、寛斎は、山鼻と樽川で種痘の接種を無料で行い人々から感謝されたといわれます。
  その後、あいの体調回復が悪く、床を離れるこができないまま経過します。あいは、せめて一目、この目で淕別を見たいと祈っていました。夫とともに開拓の志を抱いて渡道して2年、あいは斗満の地に一度も鍬を入れることなくこの世を去るのかと胸を痛めていました。
[あいの遺言] あいは、寛斎に次のような遺言を託しています。
1.葬式は決して此地にて執行すべからず。牧場に於て、卿が死するの時に,一同に牧場に於て埋
めるの際に、同時に執行すべし。
1、死体は焼きて能く骨を拾い、牧場に送り貯えて、卿が死するの時に同穴に埋め、草木を養い、牛馬の腹を肥やせ。 
1, 諸家より香料を送らるるあらば、海陸両軍費に寄付すべし。
あいの病状は落ち着いて,少し穏やかな暮らしが続きますが、同1904年(明37)6月20日の朝、あいは最後の発作に襲われ,帰らぬ人となりました。あい70歳の献身的な生涯でした。
  1906年(明治39)には、息子の次男周助・三男餘作・四男又一の名義で1011ヘクタールの成功貸付などにより、徳島県関係者の貸付地まで含めると、開拓許可面積は7203,69ヘクタールに及んでいます。

■ 徳富蘆花の来訪
  寛斎は、冬季にはマイナス30度以下になることも珍しくない厳寒の斗満(現陸別)の地に入植しました。以後10年間、想像を絶する困難にもめげず開拓の鍬をふるい、また地域住民の診療や種痘などの医療にも従事したのでした。1904年(明治37)74歳 牛首別(現在の豊頃)の報徳思想を実践する開拓結社「興復社」農場を視察して、二宮尊親(二宮尊徳の孫)の強い影響を受けます。この農場が入植者に土地を与えていることを知り、そのやり方に変えて斗満の開拓が大きく進みます。そして翌1905年(明治38)自作農育成のための理想的な農牧村落の建設を目指す「積善社」を設立します。
  1907年(明治40)徳冨蘆花との交流はじまる。1908年(明治41)78歳、東京武蔵野粕谷に徳富蘆花を訪問します。 1910年(明治43)80歳の時、「関牧場創業記事」を発表して、克明な記録を残しています。この年1910年(明43)9月24日~30日、徳富蘆花が妻愛子・鶴子を伴って斗満の関農場を訪ねています。(蘆花の「みみずのたはこと」に詳しく書かれています。)

■ 寛斎の突然の死   
  1912年(大正元)82歳 蘆花の協力を得て、―寛斎自身実践の心身鍛錬法をまとめた「命の洗濯」を東京警醒社より発刊。同年10月8日に、三男餘作が網走監獄の医官として着任しています。  
  寛斎は、トルストイと二宮尊親に深く心酔しており、小作人に農地を解放することを希望しましたが、家族に強く反対されて苦悩の末に、1912年(大正元年)10月15日、農場事務所で服毒自殺します。82歳。自殺の原因としては他に、明治天皇崩御と乃木希典の殉死、長男生三の息子からの財産分与をめぐる訴訟、寛斎自身の心身の衰えなどが考えられています。
  寛斎は1912年(大正元)陸別で没しますが、死後、4,000ヘクタールを超える広大な農場のほとんどが小作人に解放されたといわれます。今日、陸別町では、陸別開拓の祖としてその功績を称えて、銅像・記念碑・資料館や記念公園など建設しています。また、その偉業に敬意を表して、陸別国民健康保険病院は、「関寛斎診療所」と名付けられています。
  現在、関寛斎あい夫妻は、あいの遺言どおり、陸別町を見渡せる小高い丘に一緒に眠っています。

[寛斎辞世] 諸ともに契りし事も半ばにて斗満の里に消ゆるこの身は
     わが身をば焼くな埋むなそのままに斗満の原の草木肥やせよ (八十三老白里)


  関寛翁・関あい嫗 埋葬の地 


 関寛斎銅像(緑と太陽の広場)  

[寛斎格言]空しく楽隠居たる生活し以て安逸を得て死を待つは此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり     <四男又一は、1948年(昭和23年) 2月2日死去しています。71歳。>

■ 関 寛斎を記念(顕彰)するもの
★ 陸別町―「関寛翁碑」 没後25年祭顕彰碑(題字徳富猪一郎、碑文佐藤恒二佐倉順天堂病院長) 1936年(昭和11年)10月15日現在の関公園に建立        
―「関 寛斎銅像」建立 緑と太陽の広場 1978年(昭和53年) 
   ― 「席 寛斎資料館」 1993年(平成5年) その他、関神社創建、関公園の造成など。
★ テレビ放送番組
― NHKTV(ほっかいどう7:30)1978,3,9放送、
            「関 寛斎」帯広放送局制作(宮川泰夫アナウンサー解説)
  ― 千葉TV(房総プロムナード)1995,1,23放送「関 寛斎~江戸の蘭方医~」
  ― NHKETV 1995,3,15放送 シリーズ・日本をつくった日本人 
            「老いて我が理想は捨てず~城山三郎が語る 関寛斎~」
■ あとがき
 関寛斎のことを知って感動しました。いろいろ調べてもっと感動しました。原稿執筆を決意してから、いろんな資料を読みましたが、やはりこれは「現地リサーチ」にいかなければならないと考えました。そこで去る8月1日(金)~3日(日)、遠い陸別まで出かけました。
  札幌から池田までJR特急「スーパーおおぞら」で約3時間、そして池田駅前で1時間ほど待って~陸別行バスに乗り継いでさらに2時間・・・・・片道なんと約6時間強の旅となりましたが、幸い晴天に恵まれて、利別川沿いに北上するバスの旅は興味深いものでした。関寛斎・又一が拓いた土地は広大なものでした。徳冨蘆花の「みみずのたはごと」や司馬遼太郎の「胡蝶の夢」などの文章に気持ちを重ねながら歩いてきました。
  陸別町教育委員会の大鳥居仁主事の親切なご案内で、「関寛斎資料館」をはじめ、寛斎ゆかりのところをあちこち案内していただきました。わざわざ、少し離れた高台になっているところまで連れて行っていただき、関寛斎が開拓したという広大な土地を一望することもできまして、感慨一入でした。そして、「関寛翁 関あい嫗 埋葬の地」(お墓)にも手を合わせてお参りしてきました。
  陸別の有名店、「正己秦食堂」の道内産そば粉100%の手打ちそばは、ほんとうにとても美味しかったです。おすすめします。(執筆担当:中垣 正史)

<主な参考文献及び参考資料>
□「関 寛斎」鈴木要吾編 関 又一発行 昭和11年非売品   □「原野を拓くー関 寛開拓の理想とその背景―」 陸別町郷土叢書Ⅰ 陸別町役場広報広聴町史編さん室編集   □「野の人 関寛斎」米村晃太朗著 春秋社   □ 「関 寛斎―蘭方医から開拓の父へ」 川崎巳三郎著 新日本新書   □ 「関 寛斎―最後の蘭医」 戸石四郎著 三省堂選書   □「街道をゆく15北海道の諸道」司馬遼太郎著 朝日文庫     □ 「胡蝶の夢」 (1)~(4) 司馬遼太郎著 新潮文庫   □ 「あい 永遠に在り」高田郁著 角川春樹事務所   □ 「みみずのたはこと ―関寛翁 」 徳冨健次郎著 岩波文庫 (上 下)   □ 「人生余熱あり」城山 三郎著 光文社文庫   □ 「 時をこえて十勝の川を旅しよう」 (財)北海道開発協会編集 北海道開発局帯広開発建設部発行   □ 「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版       □ 関寛斎資料館 など北海道陸別町現地リサーチ   □ インターネット資料など 





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