北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -23-

HOMAS (NO.68)2013. 3. 15発行
「北前船」交易の歴史と蝦夷地に繁栄をもたらした豪商たち
-北海道航路の船主たちー 銭屋五兵衛・高田屋嘉兵衛・小納宗吉 他-

<2回に分けて掲載します。今回は「北前船」の概説とし、北海道各港に繁栄をもたらした船主たちは次回に譲ります。>

 ■まえがき
  今日の歴史ブームの中で、マスコミ報道や各地の地域振興策として、昔の多くの人物や歴史の事実が誇大にとりあげられ、その偉大さを強調している傾向があるように思われます。こうした商業主義に流されることを懸念しています。ここではしっかりと資料を読み込み、確かな歴史を掘り起こしていきたいと考えています。

■時代背景
  日本海は、世界的視野では小さな海です。大西洋の属海カリブ海約半分の広さでありました。また、内海である地中海の3分の1の広さしかない。もともとは、アジア大陸の東縁部であった陸地が数万年前に陥没して内海となり、やがて海峡によって外海と通じるようになった海といわれます。間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡、関門海峡の五つの海峡があります。日本海峡には、対馬暖流が日本列島沿いに北上し、やがて冷やされてリマン寒流となって大陸沿岸を南下するという海の道があり、古くから人々の往来・交易が発達してきたようです。
今回は、この日本海を主な舞台とした交易の歴史、特に近世から近代にかけて、北海道から本州の各港を経て大阪の間を往還した、ニシン(鰊)〆粕・昆布や米・木材などを運ぶ大動脈の主役「北前船」(きたまえぶね)に、スポットをあててみたいと思います。この北前船の存在なくしては、蝦夷地開拓も大阪の昆布の食文化も育まれなかったでしょう。そしてまた、昆布は、薩摩藩の財政を潤し明治維新へのパワーを蓄積させたといわれています。
  蝦夷地(北海道)の近代化は、明治政府の開拓使設置(1869年<明治2年>7月)によって本格的にすすめられますが、この開拓使時代以前の、北前船交易による日本海沿岸各港町の繁栄の歴史をたどってみたいと思います。

■北前船の歴史
  北前船(きたまえぶね)は、江戸中期に発生し、明治30年代まで大阪と蝦夷地を結ぶ日本海航路に就航した廻船です。一枚帆の大きな白帆に風をはらみ、季節風と潮流に乗って日本海を往来したのでした。1639年(寛永16年)加賀藩3代当主前田利常による大阪への藩米輸送が西回り航路の最初であったといわれます。

  北前船は、大阪から瀬戸内海を経て、北陸・東北の木材や米穀などを蝦夷地に輸送、そして蝦夷地からは干魚・塩魚・魚肥(〆粕)・昆布などの海産物を上方に運びました。
  上方から北海道へ向かう船には、塩・鉄・砂糖・綿・反物・畳表・莚などの雑貨も積み込まれ、これを「下り荷」とよびました。大阪から北海道へ向かう船は、大阪を出ると瀬戸内海の各港で特産品などを買い入れ、四国の金毘羅様に参詣してから、下関をまわって日本海にでて、山陰地方や若狭・越前の各港で商売をしながら北上し、能登から佐渡や新潟、酒田などを経て、順調なら半月ばかりで松前三港(箱館、福山、江差)の入港したようです。三港には、沖口番所があって、出入港取締まりがありました。航路は次第に北上して、小樽をはじめ遠くは利尻島などにも行く船が多くなったようです。北海道から大阪へ向かう船は、「登り荷」と呼びました。これは、積荷の売りさばきは瀬戸内海に入ってからが主で、松前を出たら一気に佐渡を目指し、能登、隠岐と飛び石に渡って下関から瀬戸内海に入る場合が多かったようです。
  当時、荷主の依頼によって荷物を運送するのを「運賃積み制」と呼びました。そして船主が荷主をかねて、港々で商売しながら運航する形態を「買積み制」と呼びました。北前船は、運賃で利益を稼ぐ太平洋側の「運賃積み」とは異なり、船頭の才覚で、安く仕入れた品を別の場所で高く売り捌く「買い積み」制が主流の廻船でした。
  船には、特に定まった船型はなく、「北国船」「大和船」「ドングリ船」などがあり、特に安永~寛政年間から増えはじめた「弁財船」がよく知られています。弁財船は、厚い船底板を基盤とし、幅の広い板を組み合わせて外回りを作り、内側に多数の船梁を入れて船体に強度を持たせた構造です。さらに日本海の荒波を乗り切るために、船首の反りがより大きくなり船底をより厚い堅牢な造りとした、日本海沿岸特有の北前型「弁財船」となりました。
  この北前船に使用された「弁財船」は、千石船といわれていますが、実際は300石~800石船が一般的だったようです。(高田屋嘉兵衛の辰悦丸1500石は、きわめて特殊な大型船といえます。)
  北前船経営の利益はとても大きく、利益10割以上といわれ、700石船の往復で2千~4千両の純利益があったとされます。利益10割・つまり倍儲かる「バイ船」とも呼ばれました。弁財船の建造費は、千石船で約千両と概算されていますので、日本海の荒波を乗り越える航海の危険もありますが、その原価償却は1航海で可能であり、大船主は1年で20万両という大きな利益をあげ、「豪商」の地位を築いた例もあったようです。
  北前船の船頭は、小規模経営の船主が直接経営にあたるのは「直乗船頭」とよばれますが、一般的には大船主が雇用する「雇船頭」が多かったようです。1ヵ年の給料は賃積船で35~50両であったのに対して、北前船ではなんと3両程度でした。それには「帆待(ホマチ)」という別途収入が約束されていたからでした。ホマチは、北前船では船主から公認されたもので船主荷物の1割にあたる分を、船頭個人の荷として買積みすることが許されたものでした。船頭の裁量により各寄港先で販売した帆待荷収入は、1年間2往復4回の取引で600両~800両にもなるもので、「船頭」にとってこの帆待収入は、将来船持ちにも成長できる魅力あるものであったといわれます。また、「知工」以下以下の船乗りたちにも、船主の積荷の約1割が「切出し」として別途収入が認められていました。





「日本海繁盛記」(高田 宏著 岩波新書)より転載


北前船の乗組員は、千石積みの船で14人くらいとされ、船での役割(階層)が下記のように決まっていました。 炊 (かしき)    炊事・雑用
        若衆(わかいしゅう) 航海作業一般
        親父(おやじ)    若衆の現場指揮
        片表(かたおもて)  表の補佐
表 (おもて)    航海士
        知工(ちく)     事務長
        船頭(せんどう)   船の最高責任者

  船中では米・みそ・薪は船主持ちで、副食は船乗りの負担でした。食事は、賄いのチーフ「親父」の指図で塩・たくあん・みそを主として作られたようです。時には自分たちで獲った魚を食べることもあったようです。食事は胴の間で一緒にたべますが、「船頭」だけは二畳くらいの小さな特別の部屋を持ち、神棚や仏壇もありました。飲料水は一番大切なもので、トモの最後尾の大きな水桶に入れていました。また船中には特別なトイレはなく、多くは外艫(最後尾で梶のあるところ)のあたりで海中に落としたようです。
 北前船の運航は、旧暦3月~8月の間、2往復を定法とし、秋~冬は荒海をさけて、大阪の木津川・敦賀・出雲崎などで冬囲いと称して、その間は翌年の海あけにそなえて、船の修繕にあてています。
  こうして、長い航海を終えて大阪に戻った北前船の船頭や船乗りたちは、船の繋留・冬囲いを終えた後、早春に来た道を逆に歩いて郷里の北陸路へ戻ったのでした。その年の航海の無事と商売の成功を感謝しながら、家族への土産物を詰めた柳行李を背負っての晩秋の帰宅となったようです。

■北前船が運んだもの
  海上の道が唯一の交通輸送手段であった時代に、北前船の海上交易によってもたらされたものは、食料・衣料・家具や調度品などの生活物資だけではありませんでした。蝦夷の各港に定住するようになった商人たちによって、上方・北陸などを基調とした日本文化・伝統芸能などがもたらされ、蝦夷地(北海道)発展の基盤が形成されていきました。いわば、「日本海ハイウエー」を上下した北前船は「板子一枚下は地獄」といわれた命がけの航海でしたが、その代償として巨万の富と文化を蝦夷地に運んだ宝船だったといわれます。

■あとがき 
  この「北海道開拓の基礎を築いた指導者たち」シリーズの原稿執筆にあたり、毎回多くの資料を読みながら、その濃密な歴史に感動しています。
  今回のテーマ「北前船」が運んだ「ニシン〆糟」や「昆布」の背後にある、北海道日本海岸の「ニシン漁の隆盛」、「昆布ロード」の歴史などについては、とてもここに簡潔にまとめることができませんので、次回に譲ることとし、稿を改めたいと考えています。
北太平洋を回遊するニシンは春になると南下し、やがて日本近海に姿を現します。特に江戸時代後期から明治にかけては、北海道の日本海沿岸部に大量に押し寄せ、産卵のために海岸を真っ白にして群来(くき)てくる、ニシン大漁の最盛期を迎えたのでした。各沿岸には、本州各地から集まった労働者が寝泊りする「番屋」が建ち並びました。また、このニシン千石場所として賑わった各地の港には、街並みや商家もできて、その発展隆盛の象徴として、「にしん御殿」と呼ばれる豪壮な建物が建てられたのでした。
しかしニシンの不漁が続き、番屋も次々と姿を消して、いつかその賑わいも去り、こんにちでは、各地の「にしん御殿」だけが往時の活気を伝えるものとして保存されています。(執筆担当:中垣正史)

<主な参考文献及び参考資料>
□「北前船の研究」牧野隆信著 法政大学出版局 1989  □「北前船 日本海文化と江差」江差町教育委員会編 北前船編集委員会発行   □ 「日本海繁盛記」 高田 宏著 岩波新書 1991  □ 「新版 北前船考」越崎宗一著 北海道出版企画センター 1972   □ 「日本海こんぶロード 北前船」 読売新聞北陸支社編 能登印刷出版部 1997  □「北前船長者丸の漂流」 高瀬重雄著  □「ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版  □ 各地の現地リサーチ資料    □ インターネット資料など 





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