北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -19-

HOMAS <NO64 2011,12,10 発行>>
アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績
-生活改善・学校・病院の設立に努力、アイヌの父として敬愛されたイギリス人宣教師-


■まえがき
  「世界の文化の進歩は、凡ての人が皆生存権を有して居る様に、あらゆる民族もまた民族としての生存権が明らかに認められて参りました。之は当然なことであります。日本人が米国や其の他で、差別的待遇を受けて居ることを聞く時に、ほんとうに嫌な気が致します。日本は、大いにその非を責め、又世界にむかって人類平等主義を主張せなければならないと思ひます。それをなす前に、同国民であるアイヌ族が持って生れた其の生存権まで奪ひ去られ、山から山へ追ひ込められて、予防し得る病気のため地上から滅び行かんとして居る事に注目され、其の開発向上策に誠意を示さるることを希望致します。   ―「 ジョン、バチラー自叙伝「我が記憶をたどりて 」 (昭和3年10月発行)より引用ー
  ジョン・バチェラー博士(1854~1944)は、英国聖公会宣教師。23歳で来日して、先住民族アイヌの人々が、和人に土地を奪われ差別と迫害に苦しんでいることを知り、その救済のために北海道各地でキリスト教の伝道と同時に、その生活改善のために、各地に学校(愛隣学校)をつくり無料の病院を設立するなど、アイヌ民族の人権向上のために64年間、伝道・教育・医療などに献身的に努力しました。また、アイヌ語・アイヌ文化の研究、文字のないアイヌ語の世界初のアイヌ英和事典の編纂、出版などにより、アイヌ民族の存在を世界に広めました。

■時代背景
  日本の近代化・民主化は、明治維新からはじまりますが、開拓使によって進められた北海道の開拓・近代化政策は、アイヌ民族にとっては新たな侵略支配の苦難の幕開けでしかなかったのでした。
  それは、アイヌ人に和人と同様の姓名をつけ、和人の言葉を使い同じ文字を習得させる同化政策による、いわば「植民地支配」でした。また、男性の耳輪・女性の入墨を禁止し、アイヌ民族の伝統的な祭祀や習俗にまで干渉しました。サケ漁やシカ猟の禁止によって、狩猟民族の生活手段を奪い、言語や文化的伝統を根こそぎ破壊しようとするものだったといえるでしょう。
  こういう時代の流れの中で、松本十郎判官のようにアイヌの文化に理解を示す人もありましたが、アイヌ民族の人権や文化を守る仕事は、むしろ外国人の宣教師や医師によって始められました。
  イギリス人宣教師のジョン・バチェラー博士は、64年間の長きにわたり、アイヌの人々のために尽くし、「アイヌの父」と呼ばれました。<バチェラー博士については、本稿で詳述します。>
  また、同じくイギリスの考古学・人類学者、医師のニール・G・マンロー博士(1863-1942)は、スコットランド出身、エジンバラ大学医学部卒。1892年(明治25年)29歳の時、インド航路の船医として来日、横浜ゼネラルホスピタル病院長や軽井沢サナトリウム主任医師として働く一方、日本各地の旧石器時代の貝塚発掘などをしています。1905年(明治38年)には日本に帰化。 1932年(昭7)からは、アイヌ民族研究のため、看護士・通訳者として博士を助けた千代夫人(1885-1974)と共に、平取町二風谷に永住して、アイヌ人の衛生思想の普及に努めたり、患者を無料で診察を続け、「先史時代の日本」「アイヌの信仰と儀式」などの著作も残しています。晩年は体調を崩し、1942年(昭和17年)4月12日、79歳で死去。現在は、ご夫妻共に、二風谷共同墓地に眠っています。また二風谷には、「マンロー博士記念館」・博士が持ってきて植えたといわれるドイツトウヒ並木などが保存されています。
  今回は、北海道の「アイヌの父」として敬愛された、イギリス人宣教師ジョン・バチェラー博士(1854~1944)の北海道開拓時代の明治から大正、昭和の歴史に残した偉大な足跡をたどってみたいと思います。

■バチェラーの生い立ち
  ジョン・バチェラー(John Batchelor)は、1854年3月20日,英国ロンドン南方サセックス州の田舎町アクフィールド村で、11人兄弟の6番目として生れます。バチェラー家は、由緒正しい騎士の家系で、当時、両親は毛織物の仕立て業を営んでいました。父は、ハートフィールド市の市長を3期も務めています。信心深い両親は子供たちに洗礼を受けさせて、自由・平等・博愛のキリスト教精神を教え込んだといわれます。バチェラーも、幼いころから、貧しき者・弱き者を助けるように教えられ、虐げられている先住民族に大きな関心を持っていたといわれます。当時、世界の覇権国家であった英国は、東洋に多くの植民地を支配しており、多くのキリスト教宣教師を派遣していました。
  バチェラーは、14歳で小学校卒業後、弁護士を目指しますが、弁護士試験に失敗したため、大きな農場に職を得て、働きながら夜間学校を卒業します。さらに、ロンドンのイズリントン神学校、ケンブリッジ大学神学部を卒業します。そして、母校の勧めにより、香港にある東洋で働く宣教師養成のための聖ポーロ・カレッジ入学のため、母国を離れて香港へ行くことを決意しました。
  1876年(明治9年)9月22日、22歳のバチェラーは、サザンプトン港を出港、11月11日、香港に到着、宣教師養成の神学と中国語の勉強が始まります。しかし、3ヶ月ほど過ぎたころから、香港の気候風土が身体に会わず体調を崩します。夜は、百足・油虫・蚊などに攻められて不眠症になり、そして、マラリアに罹り毎日高熱が続いたといわれます。

■宣教師として来日、函館へ
  バチェラーは、英国と気候風土の似た土地へ転地療養を勧められて、日本行きを決めて香港を発ち、1877年(明治10年)3月15日、横浜港に到着します。早速、東京で医者の診察を受けた結果、もっと寒冷の地が良いと勧められます。東京以北では、函館にしか聖公会がなかったので、函館行きを決心します。アメリカの小さな貨物船にやっと乗せてもらって、1877年(明治10年)5月1日、23歳の若き英国聖公会の宣教師の卵として函館に到着したのでした。函館では、聖公会北海道伝道の先駆者ウォルター・デニング司祭の指導を受けて、まず日本語の勉強をはじめ、半年くらい経ってからアイヌ語の勉強もはじめたようです。バチェラーは身体が快方に向かうにつれ、伝道の手伝いをはじめています。函館でアイヌ青年と出会い、日本の先住民アイヌの人たちが悲惨な生活と病に苦しんでいることを知り、当時の日本人の差別・偏見に満ちたアイヌ観に衝撃を受けます。
  1878年(明治11年)秋、バチェラーは、札幌を訪問して、開拓使長官黒田清隆にも会見しています。その後、日本家屋を1軒借りて札幌に滞在し、対雁(ついしかり)のアイヌ、デンペから直接アイヌ語を習っています。デンぺの案内で対雁を訪ねて、アイヌの風俗習慣などについての見聞を広めています。同年12月、札幌を引き上げて帰函します。この年、正式にアイヌ伝道者に任命されています。
  1879年(明治12年)5月、胆振の有珠コタンを訪問、次いで、同年9月、函館聖公会のデニング司祭とともに、平取のアイヌコタンを訪ねて、和人からの差別と迫害を受けながらも懸命に生きているアイヌの人々に接し、これを契機にアイヌへの布教活動を決意します。バチェラーの正義感あふれる人格と熱心に唱えるキリスト教に、ペンリウク首長と平取コタンの人々は心打たれたといわれます。ぺンリウク首長は、自分の家を増築してバチェラーの部屋を作ります。バチェラーは12月まで約3ヶ月滞在して、アイヌ語を学んでいます。またこの年、正式に英国聖公会の宣教師に任命され、いよいよアイヌ民族への布教と救済に全力を尽くしていくことになります。バチェラーは、必死で日本語とアイヌ語を学び、その文化や宗教をよく理解し、アイヌ語で伝道を行っています。平取コタンの人々も、バチェラーを信じ、その話を素直に受け入れて、カムイの信仰と同時に、1人また1人と洗礼を受けたといわれます。1880年(明治13年)、デニング司祭、バチェラーを伴い、再度平取を訪問、帰途、札幌・石狩・室蘭・小樽方面も訪問しています。バチェラーはまた、翌年も平取を訪問、ペンリウク宅に6ヶ月滞在して、アイヌ語を学びつつ伝道しています。
  1881年(明治14年)12月~翌年4月まで第1回英国帰国。郷里の家族や知友を訪ねて旧交をあたためた後、ケンブリッジ大学で6週間神学の特別研究をして、さらに、キリスト教を伝道する者には深い知識と教養が必要とされるとして、イズリントン神学校に再度入学して勉強をしています。
  1884年(明治17年)元旦、東京英国大使館で、バチェラー(30歳)は、函館宣教師会代表ウォルタ・アンデレスの妹ルイザ((41歳)と結婚式を挙げています。彼女は清純なクリスチャンでした。同年1月下旬、アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介した「蝦夷今昔物語」(和綴じ・66頁)を、<函館英国人バチロル>の名で出版しています。その後、夫人同伴で関西旅行、大阪で「アイヌ民族の風俗」について講演をしています。またこの年、夫人同伴で道内各地へ6ヶ月間の伝道旅行をします。
  狩猟を禁止されたアイヌ民族の食生活の変化に伴う基礎体力の低下を心配して、バチェラーは、禁酒を強く勧めました。しかしこれが、日本人役人の布教活動に対する介入もあって、告訴事件となり、誤解を受けてコタンの人々との関係もこじれてしまいます。1885年(明治18年)、バチェラーは、住み慣れた平取滞在を打ち切り、室蘭・伊達・白老・釧路・厚岸・網走などのコタンを訪ねて、習得したアイヌ語で伝道して歩きました。

■幌別へ転居
  1886年(明19年)5月、バチェラーは、ルイザ夫人・養女キン、召使パラピタ夫妻の5人で、キリスト教布教のため、函館の住居を幌別に移して定住します。以後、札幌に転居するまでの6年間、ここを拠点として、遠くは日高方面までも馬に乗って布教に出かけたといわれます。1888年(明治21年)、バチェラーは、就学率の低いアイヌの子供のために、良心的な和人や伝道教会の募金を元に最初の「愛隣学校」を設立します。これが後の、全道各地のアイヌのための「愛隣学校」のモデルとなり、バチェラーはこの時の経験を活かして各地の指導にあたったといわれます。1887年(明治20年)バチェラーは、英国の伝道教会から、正式にアイヌ民族の宣教師に任命されています。
  この幌別の住居は、当時、その牧場で牛を飼い・農作もしていた邸宅跡の敷石とイチイ・ポプラの木・池の跡などが僅かに面影をとどめていて、現在、史跡に指定されています。
1890年(明治23年)1月~翌年6月下旬の間、バチェラー夫妻第2回の英国帰国。英国で、ある村の牧師を6ヶ月間努めています。また滞英中に、ヨハネ福音書・マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版しています。
  1891年(明治24年)37歳の時、バチェラーは平取に戻りコタンの人々と再会、ペンリウク首長も6年前の非礼を詫びて快く迎えます。コタンの人々とも信頼関係を取り戻し、以前よりも堅い絆で結ばれた平取の人々は、次々とキリスト教に入信し、その数は100人以上にもなりました。1895年(明治28年)5月、バチェラーは、英国の伝道協会の援助を待ちきれず、自費で平取に教会堂を建てました。そして、次の伝道地 伊達町有珠へ向かいます。1896年(明治29年)、ここでも、有珠コタンの信者のために教会堂を建てています。 


  
「ジョン・バチェラーの手紙」(仁多見巌訳編)より転載

■札幌に定住
  1892年(明治25年)、バチェラーは、札幌に転居して、さらに伝道活動の幅を広げて、全道各地、さらに樺太の辺地にまでおよび、樺太アイヌ、ギリヤーク人、オロッコ人などにも布教活動を行っています。1898年(明治31年)札幌に住宅を新築して、ここには離日まで住んでいます。
  1896年(明治29年) 英国聖公会派遣の、ロンドンの病院で看護婦をしていたエディース・メアリー・ブライアント女史(1859-1934)が来日。約1年半、札幌のバチェラーのもとでアイヌ語を学び、その後、平取に赴任し、13年間アイヌの伝道・医療・私塾を開いて子弟の教育に献身的に尽しました。
  <1900年(明治33年)12月~1902年(明治35年)5月の間、バチェラー第3回英国帰国>
 札幌の自宅隣接地にアイヌ人のために、アイヌ民族の家屋様式を取り入れたかやぶきの無料診療所を開設します。バチェラーは、英国の伝道協会にもアイヌ民族の窮状を訴えて援助金を求めていますが、その経営は苦しく、バチェラーの生活費を削って入院患者の薬代に当てたたりしたといわれます。その後次第に協力者も増え、札幌市立病院の関場不二彦院長もボランティア診療をしたため、その評判は全道各地に広まりました。連日遠方から訪れるアイヌの人々で、診療所はいっぱいになり、入院患者の多くがキリスト教の信仰に導かれて、身も心も癒されたといわれます。
  さらに、自宅別棟に、「アイヌ・ガールズ・ホーム」を建築して、多くの身寄りのないアイヌの女子児童を引き取り、勉強を教えました。そして優秀な少女、向井八重子を支援して進学させています。
  バチェラーは、1906年(明治39年)10月30日、八重子を養女に迎えますが、以後彼女は、バチェラー八重子として父親を助けて、共に各地で講演活動を行い、アイヌ民族の救済を訴え続けています。また、バチェラーは、八重子の弟・向井山雄の才能も見込んで、立教大学文学部神学科卒業まで学資の支援をしています。山雄は1918年(大正7年)卒業後、アイヌ伝道を開始、バチェラーの後継者として活躍します。また、八重子の末の妹チヨもバチェラーの世話のもとで、長じて聖公会牧師 岡村国夫司祭の妻として教会保育園の保母として尽力しています。
1908年(明治41年)12月~1910年(明治43年)4月の間、第4回英国帰国。バチェラーは、ルイザ夫人・八重子を伴って、シベリヤ鉄道経由で帰国。英国帰国直後に、日本から明治天皇下賜の勲四等の勲章が送られて感激したそうです。翌年秋、カンタベリー大僧正より神学博士の学位を贈られます。この間八重子は、バチェラー通訳により英国各地でアイヌについて講演をして寄付を受けています。
  日本に帰ると、バチェラーは、明治天皇の観桜御会に招かれて、天皇に拝謁し握手を求められています。こうして、バチェラーは、アイヌ伝道者・アイヌ民族学者・アイヌ問題の権威者として、その名声は、日本全国に鳴り響いていたといわれます。
  1920年(大正9年)には、アイヌ民族に中学校以上の教育を受けさせるために、寄宿舎「バチェラー学園」を創設しました。アイヌの子供たちを札幌に集めて、生活費や学費などの経済援助をして中学校以上の学校へ通学させたのです。これには有島武郎も感銘を受け、「惜しみなく愛は奪う」の道内講演旅行の講演料を寄付しています。また資金不足のため、1930年(昭和5年)、新渡戸稲造を会長とする「バチェラー学園後援会」が設立され、活発な募金運動が始められます。各新聞報道もあり、次第に寄付金が集まり、1931年(昭和6年)には待望の財団法人が認可されます。この学園からは、多くのアイヌの青少年が、教師、獣医、無線技師などとして、世に送り出されたということです。
  1923年(大正12年)には,バチェラー70歳で宣教師を退職します。アイヌ民族への伝道と救済に捧げた46年間でした。しかしその後も、バチェラーは札幌に住み、北海道に骨を埋める覚悟をして活動をつづけました。こうして、人生の大半をアイヌ民族のために尽くしたので、「アイヌの父」と呼ばれました。1928年(昭和3年)10月、自叙伝「我が記憶をたどりて」を刊行しています原文ローマ字を日本語文字に清書したのは得能松子でした。その夫は、北海道庁内務部長得能佳吉で、バチェラーによって信仰に導かれたキリスト教信者でした。彼は、後に岩手県知事になっています。また、バチェラーと長年交流のあった徳川義親公爵が序文を寄せています。
  1932年(昭和7年)5月、勲三等瑞宝章を贈られます。1936年(昭和11年)4月6日、妻ルイザ(1843,11,29生)が、老衰のため92歳で死去します。現在も、札幌円山墓地の「ルイザ・バチェラー之墓」に眠っています。同年(昭和11年)10月~翌年3月の間、第5回英国帰国。そして10月、ルイザ夫人の姪、フローレンス・アンデレスが、バチェラー援助のため来日します。
  バチェラーは、アイヌ語の言語学的研究とアイヌ文化の民俗学的研究に多くの優れた業績を残し、日本のアイヌ文化研究の先駆者の1人に数えられています。著書には、アイヌの生活・文化を紹介した「蝦夷今昔物語」(1884・明17)、そして35歳の時に、北海道庁の依頼を受けて、世界初のアイヌ英和辞典・二万語におよぶ語彙を採録した「蝦和英三対辞書」(1889・明22)を出版しています。また、アイヌ語訳の聖書・賛美歌などもあり、40数冊の著書を出版しています。
  バチェラーから洗礼を受けて、平取・旭川近文アイヌ部落で伝道師として布教していた金成マツ(幌別出身・1875-1961)を、1918年、金田一京助博士にはじめて紹介したのは、バチェラーでした。
  金成マツは、「私が函館の学校(愛隣学校・7年間)にいけたのは、バチェラー先生が推薦してくれたからです。函館の学校でローマ字を習ったから文字を持たないアイヌの私にもユーカラが書けたんです。経済的にもずいぶん先生のお世話になりました。アイヌのためにただアイヌのためにと、実に熱心に働いた人でしたからね、とても良い人でした。」と述懐しています。金成マツは、金田一京助のアイヌ語研究に協力して多くのユーカラをローマ字で記録して残しました。幌別の「カンナリ家」は、その一族から、ユーカラ伝承者金成マツをはじめ、「アイヌ神謡集」の著者知里幸恵(1903-1922)、「分類アイヌ語事典」などのアイヌ語研究の権威者となった知里真志保博士(東京帝国大卒・北大教授・1909-1961)などを輩出した優秀な家系です。<金成マツの妹、知里ナミの子が幸恵と真志保姉弟>
バチェラーの紹介が機縁となり、金田一京助博士が知里真志保を支援したのでした。アイヌ語研究に一生を捧げた知里真志保は、このバチェラーの「蝦和英三対辞書」を土台にして研究を発展させています。このようにバチェラーこそ、わが国の本格的なアイヌ語・文化研究の先駆者といえます。



バチェラー夫妻と八重子(前列右)、弟山雄(後列右)

■向井(バチェラー)八重子(1884-1962)、違星北斗(1902-1929)のこと
  八重子は、1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠のアイヌ豪族の父向井富蔵(アイヌ名モロッチャロ)・母フチッセの6人兄弟の次女として生れます。八重子(フチ)・弟に山雄(1890年生まれ)がいます。父富蔵は、バチェラーがはじめて有珠を訪ねた時から知り合いとなり、幼い八重子もバチェラーによくなついていたといわれます。父は、相当な見識を持ち時勢を見る目もあり、財力も胆振国第1位を占めていた時期もあったといわれます。進歩的な人で八重子7歳の時に洗礼を受けさせています。八重子11歳の春、父は死去しますが、遺言により、葬儀はキリスト教で行っています。
  その後、家屋敷を騙されて小野正次郎に奪われますが、伊達町の人々はその不正を知って小野正次郎はまったく信用を失ったといわれます。後年、八重子の弟・山雄が伊達町の町会議員となり、父に代わって活動しています。
  八重子は、13歳の時札幌に出て、バチェラーの「アイヌ・ガール・スクール」に学び、1902年(明治35年)東京の聖ヒルダ神学校(香蘭女学校)に進学、18歳の時から、バチェラーの聖公会伝道師としてアイヌ伝道に活躍します。1906年(明治39年)10月30日、八重子はバチェラー夫妻の養女となります。バチェラー53歳・ルイザ64歳・八重子22歳でした。その契約書には「向井フチハ養父ジョン・バチェラー、養母ルイザ・バチェラーノ精神ヲ継承シテ同胞ヲ救ハン事ヲ生涯ノ勤メト為シ且ツ之ヲ永遠ニ伝フル事」とあり、八重子は、その通りの生涯を送ったのでした。八重子は、英語・アイヌ語・日本語を使い分けて訪問客や養母ルイザの通訳をしながらアイヌ人伝道に励みます。
  1901年(明治41年)、八重子は養父母とともに、シベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命をうけ、滞在中、英国各地で講演を行っています。帰国後は、日本聖公会の幌別・平取の聖公会教会で伝道活動をしています。また、1912年(明治45年)7月、樺太伝道旅行、1919年(大正8年)美唄炭鉱・夕張炭鉱に働く挑戦人労働者への伝道にも出かけています。
八重子は、この頃から同族の悲惨な状態に心を痛めて、折々に詠んだ短歌を保存していました。それが、金田一京助の知るところとなり、1931年(昭和6年)4月10日、歌集「若きウタリ(同族)に」(竹柏会・東京堂発行)として出版されます。これには、金田一京助・佐々木信綱・新村出が序文を寄せています。これは、アイヌの誇りと悲しみを高らかに歌い上げた歌集で、アイヌ人が、始めて日本語で書いた魂の叫びといわれます。
  また、八重子を敬慕していたアイヌ歌人、違星北斗(余市生まれ・本名滝次郎、1902-1929)は、1914年(大正3年)小学校卒業後、出稼ぎなどで職を転々としますが、各地でアイヌの地位向上の運動を始めます。1927年(昭和2年には、平取に滞在してバチラー幼稚園で働いています。翌年には、売薬行商として各地を回ります。その後結核に罹り1929年(昭和4年)、27歳の若さで死亡しますが、アイヌ民族の差別的な状況に激しい怒りの声を投げつけた短歌は、遺歌文集「コタン」(希望社・後年草風館発行)に収められています。(北斗の句碑「春浅き鰊の浦や雪五尺」が余市水族館前に建てられています。また、二風谷小学校前には、短歌2首の歌碑があります。)
  1936年(昭和11年)4月、養母ルイザが死去。1940年(昭和15年)養父バチェラーの帰国、そして4年後に死去という悲しみに耐えて、八重子は、弟の向井山雄が司祭をしていた有珠のバチェラー夫妻記念教会堂近くの自宅で、養父バチェラーの愛読書250冊や遺品を守りながら静かに暮らしていました。1962年(昭和37年)4月、たまたま、かつて世話をした韓国人の招きで関西方面へ旅行中、京都で急逝したのでした。4月29日死去、77歳の独身の生涯でした。

■バチェラーの晩年
  時代は、太平洋戦争への突入により、敵性外国人として帰国を余儀なくさせます。1940年(昭和15年)12月、この時、86歳のバチェラーは、「必ず戻る」と八重子に言い残して、姪のアンデレスとともに日本を去りました。在日64年間でした。カナダのバンクーバー島の親類宅に2年間滞在します。再び日本に帰りたい気持ちで待機していたのではないかといわれています。英国の郷里へ戻ってからも、バチェラーは、戦火がおさまったらまた、アイヌの人々のもとへ戻りたいと願っていました。バチェラーは、帰国の時も、ルイザ夫人の遺骨は円山墓地に残したままでした。それは、早くから夫妻ともに日本に骨を埋める決意をしていたからでした。英国の郷里アクフィールドの生家で、アンデレスが最後まで世話をしていましたが、1944年(昭和19年)4月2日、脳溢血のために、90歳の生涯を終えています。
  その報せが日本に届いたのは、2年後の1946年(昭和21年)8月でした。バチェラーを慕うアイヌの人々は、各地で追悼集会を開き、彼の功績を偲んだといわれます。平取町二風谷には、その功績を後世に伝えるため「バチェラー保育園」が開設されています。そして、遠く離れた英国アクフィールド村にも、ジョン・バチェラー記念碑が建てられています。中央部分に大きな北海道地図が浮き彫りにされ、漢字の「愛」一文字と「ホッカイドウ・ジャパン」という言葉が刻まれています。この記念碑は、平取を中心としたアイヌの人々の献金によって建設されています。「アイヌの父」ジョン・バチェラーは、いつまでも、北海道に住むアイヌの人々の心の中に生き続けているといえましょう。

■バチェラーを記念するもの
①ジョン・バチェラー家跡(史跡:登別市青葉町32-1)
1886年(明19年)5月、バチェラーは、家族と共に、函館から幌別に移り、以後、札幌に転居するまでの6年間、ここを拠点として、布教活動をしています。現在、その牧場で牛を飼い・農作もしていた邸宅跡の敷石とイチイ・ポプラの木、池の跡が僅かに面影をとどめています。(史跡に指定)
②バチェラー保育園(沙流郡平取町本町65-2)
  1895年(明治28年)5月、バチェラーが、自費で建てた教会堂を記念して、現在、「バチェラー保育園」として運営を続けています。
③バチェラー夫妻記念教会堂(伊達市向有珠119)
1896年(明治29年)、バチェラーが建てた木造の教会を、1937年(昭和12年)、アイヌ民族で最初の司祭となった向井山雄氏らが、バチェラー夫妻の功績を讃えて石造りの記念堂として改築しました。現在は、「バチェラー夫妻記念教会堂」として保存されています。
④バチェラー博士旧宅(札幌市中央区北3条西9丁目、北大植物園内)
1898年(明治31年)建築のバチェラー博士の旧宅は、もと北3条西7丁目(北海道庁裏)にありました。1941年(昭和16年)の博士の帰国後は、財団法人バチェラー学園が管理、1953年(昭和28年)北海道に譲渡、1962年(昭和37年)に遺品とともに北海道大学に寄贈されて、翌年植物園内に移築。1964年(昭和39年)から1985年(昭和60年)まで、農学部付属博物館分館、通商「アイヌ博物館」として開館されましたが、現在は、一般公開せず収蔵庫として利用されています。非公開ですが、2階には、バチェラー博士ゆかりの家具・写真・図書資料などを展示した記念室があります。

■あとがき
  世界の多くの先住民族、アメリカのネイティブアメリカン(インディアン)・オーストラリアのアボリジニ・アラスカのイヌイット(エスキモー)、日本のアイヌ・・・などが、不当な侵略抑圧をうけてきた歴史的経緯については周知のとおりですが、1993年の「国際先住民年」を契機として、世界の先住民(少数民族)の復権運動に対する関心が高まり、複数の民族が共生する社会をめざす相互理解へのさまざまな取り組みがなされています。
  日本では、1899年(明治32年3月2日)以来の「北海道旧土人保護法」が廃止されて、やっと、1997年(平成9)、「アイヌ文化振興法」(アイヌ新法)が成立した今日、単なる伝統的風習への関心や観光的な視点だけでなく、真に差別や偏見を超えたアイヌ民族の文化や生活権を尊重した共生社会が求められているのではないでしょうか。近年のアメリカ訪問団の来道においても、必ず、アイヌ民族問題がテーマのひとつとして上げられています。

<主な参考文献及び参考資料>
□ 「第四集 ほっかいどう百年物語」 STVラジオ編 中西出版 □ 「ジョン・バチェラー自叙伝 我が記憶をたどりて」文録社   □「アイヌの父、ジョン・バチェラー」仁多見 巌著 楡書房  □「ジョン・バチェラーの手紙」仁多見 巌訳編 山本書店  □ 「開拓につくした人びと」 第七巻 北海道総務部文書課編集 理論社刊  □ 平取聖公会宣教百三十周年記念誌「主に愛されて生きる」(日本聖公会北海道教区平取聖公会) □「郷土史ふれない」振内郷土史編集委員会編 □「語りつぐ平取」平取町編集発行  □ 平取町二風谷の現地取材資料  □ インターネット資料など 







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