北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -13-

HOMAS <NO.58 2009,12,10発行>
北海道開拓の恩人 開拓使長官黒田清隆の生涯と業績
-開拓次官(明3~)長官(明7~明15)・開拓事業とすぐれた外国人の招聘に尽力ー

■まえがき
  北海道の本格的な近代化は、1869年(明治2年)7月、明治政府の開拓使設置によりスタートしますが、黒田清隆(1840-1900)<以下、「黒田」>は、1870年(明治3年)5月開拓次官、その後1874―1881年(明治7年8月―明治15年)開拓使長官として、多くの外国人指導者を招聘して、北海道の開発や農工業の振興に力を注ぎ、今日の北海道および近代都市札幌の発展の基礎を築いたのです。北海道開拓の恩人といわれる所以です。
黒田(30歳)は、農業経営の模範を米国に求めて、1871年(明治4年)4月、マサチューセッツ州出身の米国農務省長官(農務局長)ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)を開拓使顧問として招聘しました。同年8月、来日したケプロンの指導で、早速、東京の青山・赤坂・麻布に官園が設けられ、北海道に導入する作物の試作、家畜の飼育や農業技術者の養成などが行われます。ケプロンは、滞日3年10ヵ月、その間3回にわたり、道内各地の視察・調査に来道し、北海道の基本的な開発計画を提案し、札幌を首都とすること、農業開発のために高等教育機関を設置することなどを内容とする詳細な「ケプロン報文」を作成しています。このケプロンの進言により、米国の進んだ畜産技術や農耕馬によるプラオの使用を普及させたエドウィン・ダン(1848-1931)を招き、またマサチューセッツ農科大学長ウィリアム・S・クラーク(1826-1886)を迎えて札幌農学校を開校(明9,8,14)させます。ケプロンの提言は、すべて、北海道開拓の基礎事業、開発すべき諸産業の振興に関するものであり、その後の北海道の開拓・開発の重要な指針となるものであったといわれています。
  2010年、北海道・マサチューセッツ州姉妹提携20周年を迎えるにあたり、前号の北海道開拓の父「ホーレス・ケプロン」に続いて、今回は、そのプロモーター・北海道開拓の恩人「黒田清隆」の生涯と業績を掘り起こしてみたいと思います。

■黒田清隆の生立ち
  黒田清隆は、1840年(天保11年)10月16日、薩摩藩士の家禄わずか4石の下級武士・黒田仲佐衛門清行の長男として生まれています。幼名了介。両親を早くに亡くし、姉の黒田たかが母親代わり的な存在であったようです。黒田は、藩の若者を集団訓練する「郷中教育」でほとんど休まず軍事調練をうける元気者であったそうです。長じて薩摩藩の藩校「造士館」に学び、藩主島津斉彬の西欧の学問や新しい技術に目を向ける考え方の影響を強く受けます。1860年(万延元年)、藩から三両二人扶持を与えられて砲隊の砲手となり、異彩を放ったといわれます。当時すでに、薩摩藩では、溶鉱炉・鋼鉄製造炉・大小砲削磨機・その他製織工場などもあり、「集成館」という藩営工場群の工業活動が盛んであったようです。
  1862年(文久2年)8月21日、生麦村(現、横浜市鶴見区)を通過中の薩摩藩主島津忠義後見役の叔父島津久光一行の行列に馬で乗り入れたイギリス商人C.L.リチャードソンら4人を殺傷した「生麦事件」の折、黒田は、薩摩藩随行の一人として居合わせるも、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした者を止めたといわれます。黒田自身は「示現流」の有数の使い手で、後年、宗家東郷重矯より皆伝しています。
  「生麦事件」に対する英国の賠償金要求を薩摩藩が拒否したために、1863年(文久3年)7月2日、英国艦隊7隻が鹿児島湾(錦江湾)に進入、暴風雨の中で薩摩の陸上砲台との間で激しい砲撃戦が展開されました。薩摩藩の諸砲台・藩直営工場の「集成館」は壊滅的損害を受け、民家や寺社までも大きな被害が及び、英国艦船の大砲の威力に驚きました。英国側も60名余の死傷者をだしています。この「薩英戦争」に砲隊の一員として参加した黒田は、外国のすぐれた技術や文化を取り入れなければならないことを一層強く感じます。黒田は留学を願い出て、藩主からロシア留学を命ぜられましたが、1863年(文久3年)12月、藩の要請で江戸にでて、砲術の指導者を養成する「江川塾」で、大砲の射程・照準などの正確な理論と実技を学び皆伝しています。
1866年(慶応2年)の薩長同盟に際しては、薩摩側の使者として土佐藩の坂本竜馬(1836-1867)に会い、大阪で薩摩の西郷隆盛(1828-1877)と長州の桂小五郎(後の木戸孝允・1833-1877)の対面を実現させています。そして討幕を目的とする政治的・軍事的な同盟、いわゆる「薩長連合」が成立します。
  薩長を中心とする新政府軍と旧幕府軍の争いは続き、1868年(慶応4年)の「戊辰戦争」では、黒田は1月鳥羽伏見の戦いで薩摩藩小銃第1隊長として参戦。また北越戦争では、山県有朋とともに参謀を命ぜられます。夜襲を受けた長岡城の攻防で官軍主力は劣勢にたつも、黒田は新発田藩を降し新潟を占領して戦闘を決したのでした。さらに、黒田は西郷と合流して米沢藩と庄内藩を帰順させて、9月27日庄内の鶴岡城を接収してこの方面の戦闘を終えています。黒田はいったん帰郷。1869年(明治2年)1月、軍務官に任命されます。
  1868年(慶応4年―9月8日明治と改元))、官軍は西郷隆盛を参謀として3月15日総攻撃を期して江戸に迫りますが、官軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟(1823-1899)の歴史的会見により、「江戸城」の無血開城(4月11日)の運びとなります。
  しかし、勝の江戸開城を不満とした旧幕府海軍副総裁榎本武揚(1836-1908)は、8月19日、旧幕府の新鋭艦「開陽」・「回天」など8隻を率いて北上、仙台湾に集結します。旧幕府陸軍奉行大鳥圭介の部隊など、その幕軍の数2,500人といわれます。評議の結果箱館をめざすこととなります。10月、榎本は噴火湾岸の森(鷲ノ木)に上陸して、箱館五稜郭(箱館裁判所-箱館府)を占領した大鳥圭介・土方歳三らと合流し、11月松前城をも陥し入れて全島平定成り、12月「蝦夷共和国」の独立を宣言して、蝦夷島総裁榎本武揚・副総裁松平太郎・海軍奉行荒井郁之助・陸軍奉行大鳥圭介の新政権を樹立します。これに対し、新政府軍の五稜郭を攻撃する「箱館戦争」がはじまります。黒田は新政府の陸軍総参謀として1869年(明治2年)3月、東京を出港、途中宮古湾海戦に際会しますが、4月19日江差に上陸して、官軍と旧幕府軍との最後の戦いの総指揮をとります。5月に旧幕府軍が箱館に追い詰められたのをみて、オランダ留学の外国近代科学(軍艦建造・船舶運用術・砲術・機関学)の新知識所有者榎本を惜しみ、助命の内部工作を手配します。最期を覚悟した榎本は、留学中の貴重な研究書「万国海律全書」上下二巻を黒田に届けます。この返礼として黒田は酒5樽と鶏卵500個を送ったといわれます。黒田は、5月11日を総攻撃と定めて、自ら少数の兵を率いて背後の箱館山を占領して奇襲攻撃をしかけます。土方の新撰組隊敵や伝習仕官隊が迎撃しますが、五稜郭に追い込まれます。この戦いで、土方は必死に交戦しますが、遂に流弾に当たって落命したのでした。黒田は榎本に降伏を勧めます。このとき、村橋久成が軍監として降伏勧告の任にあたっています。榎本は遂に意を決して、5月18日、部下1,000名と共に五稜郭を出て降伏しました。こうして「箱館戦争」は終結します。榎本ら首脳部は東京の軍務官の獄に投ぜられ、一般兵士は弘前その他に軟禁されたといわれます。
  <同年(明治2年)11月22日、黒田(28歳)は、大久保利通の世話により、旧旗本中山勝重長女せい(14歳)と結婚します。この結婚から明治6年ころまでが幸福な時期であったようです。黒田は子煩悩で明治5年の長男誕生を喜ぶも病死、そして明治8年待望の長女をもうけるも、またも翌年夭折。黒田は悲嘆に暮れ、妻も悲しみのあまり体調を損ないます。この悲しみの中で、妻の妹百子(9歳)を養女にむかえて、家庭も少し明るくなったといわれます。>
黒田は、戦後、榎本武揚助命を強く要求して厳罰を求める者と長い間対立し、助命嘆願のために剃髪までしています。これについては、1872年(明治5年)1月6日になってようやく榎本武揚・松平太郎・荒井郁之助・永井尚志・大鳥圭介・沢太郎右衛門らは、謹慎処分で無罪決着します。後に、開拓使に登用し、北海道開拓に協力させています。以後、榎本は黒田の「知恵袋」として活躍します。

■明治政府の北海道開拓
  明治政府は、ロシアの南下政策に対して、北方の防備のために北海道の開拓を急務としていました。
  黒田(29歳)は、1870年(明治3年)樺太専任開拓次官となり、7月から樺太出張してロシア関係の調整にあたるも危機感を強くします。北海道を視察して帰京すると、10月20日、北海道開拓の必要性を説く建議書を提出。すぐにも外国から開拓のことに長ずるものを雇い、北海道への移民・工業・鉱山測量などのことを実施すべきであると主張しました。明治政府は、この黒田の提案を全面的に受け入れて、北海道開拓に必要とする、開拓に長じた外国人技術者の雇用と農業機械購入など、樺太・北海道全域の全てを黒田に委任します。その費用について、開拓使の定額予算以外からの支出も保障しています。
  1871年(明治4年)1月4日、黒田(30歳)は、留学生7名を伴って米国に向けて出発、サンフランシスコから大陸横断鉄道でワシントンに到着します。黒田は、当初から北海道開拓に必要なお雇い外国人を主として米国に求める考えであったようです。また、直接の人選の衝にあった森有礼(1847-1889)は、気候風土の相似したニューイングランドの州を念頭においていたようです。こうして、同年(明治4年)4月、黒田(30歳)は、駐米公使の森有礼とともにグラント大統領に会見して、日本政府の申し出を提示します。これを受けて米国は日本の要請を承認して、開拓使顧問としてホーレス・ケプロン(67歳)を推薦しています。滞米中黒田は、密出国した野村高文という学生を通訳として採用したり、密出国の新島襄(後の同志社大学創立者)に学資を与えたりしています。また漂流して米国に流れ着いた漁船員なども援助して帰国させています。黒田はこの間、英・仏・蘭を経て、ロシアに至り、帰路米国で多くの資材・機械類を購入して、6月7日帰国します。帰国後、10月開拓使長官東久世通禧の辞任により、黒田は次官のまま開拓使の頂点にたつことになりました。

■開拓使顧問ホーレス・ケプロンの招聘
  明治政府はケプロンを1871年(明治4年)5月15日に任命するも、後任の関係で大統領の承認が得られず、ケプロンが6月27日に、辞表を再提出してグラント大統領の承認を得ています。(ケプロンの年俸は1万ドル<農務局長職は4,000ドル>。助手は3000~4000ドル。一行の日米往復と滞日中の生活の経費はすべて日本政府負担。さらに、家具つき住居提供、家賃・税免除。家事使用人・世話人・警備員を置く~などの条件。)
  ケプロン他3名の一行は、1871年(明治4年)8月1日サンフランシスコを出発、8月25日午後6時半横浜港に到着しました。東京での宿舎は芝増上寺の本坊が「ケプロン館」に当てられました。早速、政府高官の饗宴をうけ、天皇にも謁見しています。ケプロンは来日に際し、工学・地質・鉱学関係担当の技師として合衆国農務省に勤務していたアンチセル、測量・土木関係担当の技師としてバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワーフィールド、それに書記兼医師としてジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書をしていたエルドリッジという優秀なスタッフを同行したのでした。

■黒田清隆・ホーレス・ケプロンの北海道開拓計画
  草創期の初代判官島義勇・その札幌都市計画の実施にあたった第2代判官岩村通俊のあとを受けて、黒田は、ケプロンと相談して北海道開拓の事業推進のために「開拓使10年計画」(明5~明14)を立てます。当時のお金で、1,000万円の予算で、外国の新しい技術や制度を取り入れて北海道を開拓しようと考えたのです。
  まず、ケプロンの「農科大学を興すべし」の献言を受けて、1872年(明治5年)4月15日、東京芝増上寺山内に「開拓使仮学校」を開校します。校長荒井郁之助・教頭アンチセル・教授ワッソンとし、お雇い教師はほとんどアメリカ人を採用しています。官費生50名・私費生50名を定員として、官費生は10年・私費生は5年開拓使奉職を義務とします。(この「仮学校」が、校風弛緩により廃校・再建、女子校併設などの曲折を経て、1875年(明治8年)8月、札幌に移転して「札幌学校」(校長調所広丈)となり、翌1876年(明治9年)7月31日クラーク、ホイーラー、ペンハローの一行を札幌に迎えて、8月14日の「札幌農学校」(校長調所広丈・教頭クラーク博士)の開校へとつながります。)
  ケプロンは、1871年(明治4年)9月、早速、東京の青山・赤坂・麻布に農事試験場「官園」3ヶ所設置して、アメリカから輸入した動植物を管理しました。(この建設・事業責任者に、村橋久成が任命されています。)開拓使は、「将来北海道で栽培する農作物は、まず東京の官園で試験栽培し、成功のメドがついてから、北海道に移殖しよう」と考えていました。後に、北海道の七重官園(のち七飯勧業試験場)・札幌官園が設置されました。札幌では、札幌本庁敷地北側に3600坪(後に40万坪に拡大)の御手作場を設け、さまざまな農作物が栽培され「葡萄園」・「ホップ園」・「果樹園」なども設けられました。その後、1876年(明治9年)には、この官園のうち、30万坪が札幌農学校農場に移管されました。
  開拓使は、ケプロンの献策により、札幌市内大通~北1条・東1丁目~東4丁目を工業ゾーンとして、さまざまな「官営工場」を建設しました。当初、東京の官園内に建設予定であった「麦酒醸造所」ですが、村橋の提言が認められて、村橋久成と麦酒醸造技師中川清兵衛による「開拓使麦酒醸造所」(明9、今日のサッポロビールの原点)もこの地に誕生しています。「開拓使葡萄酒醸造所」「開拓使製糸所」などの開拓使諸工場設置も、黒田が若き日に薩摩藩で経験した近代科学重視の考え方が反映したものと考えられます。しかし、財政経理については、次第に赤字が累積して、早くも明治5年10月「札幌会議」で道政の立て直しが必要ということになり、明治6年2月岩村通俊(1840-1915)判官が辞任して、健全財政について定評のあった松本十郎(1840-1916)が迎えられます。松本は諸費の無駄を省き、新規事業を中止させ、6年には庁員を半数に整理してかえって事務能率をあげたといわれます。松本の緊縮方針により、一時札幌の建設ブームは去り、街は活気を失って、札幌を去る市民も少なくなかったそうです。こうして松本は8年1月に至って赤字を解消しています。しかしその後、松本は、樺太アイヌの対雁(ついしかり)強制移住をめぐって黒田と対立し、開拓使を去って故郷庄内に帰り、一介の農民として生涯を送ったのでした。
  1873年(明治6年)11月、黒田は屯田兵の創設を建議します。大久保利通(1830-1878)の支持を受け、12月に承認されます。この屯田兵制度は、北海道の開拓と北方警備の重要性に加えて、禄を失った士族救済の役割をはたす画期的な政策でした。1874年(明治7年)6月、黒田は、陸軍中将、北海道屯田憲兵事務総理。同年8月、参議兼開拓長官となり、榎本らの旧幕臣の多くを開拓使に登用しています。
  1874年(明治7年)、ケプロンの進言により、屯田兵最初の入植地を札幌郡琴似村と定めて、兵屋208戸・中隊本部・練兵場・授産所などを建設しますが、この「琴似屯田兵村」建設の任にあたったのも村橋久成でした。翌年5月、屯田兵・家族965人第1陣が入植しています。以後、北海道には、最終的に37の兵村が出来、合計約4万人が入植します。<屯田兵制度は1904年(明37)廃止まで続きます。>
ケプロン在任中のお雇い外国人の大半は、ケプロンの推薦・承認のもとに採用されたこともあり、多くのアメリカ人技術者が中心となったようです。地質・測量・鉱山のライマンや助手マンロー(1872・明5来日~)、農業・牧畜のボーマー(1871・明4来日~)やダン(1873・明6来日~)などがよく知られています。
  ケプロン帰国後も、札幌農学校関係では、初代教頭・農学・化学・数学のクラーク、土木工学・数学・第2代教頭のホイーラー、化学・農学・数学・第3代教頭のペンハロー(3名、1876・明9来日~)、農学・官園監督・第4代教頭のブルックス(1877・明10来日~)、生理学・解剖学・病院医術顧問のカッター、数学・土木のピーボディー(2名、1878・明11来日~)などを迎えています。また、茅沼・幌内炭鉱のゴージョー、ダウス(2名、1879・明12来日~)、鉄道敷設・土木顧問のクロフォード(1878・明11来日~)、水産加工・魚肉缶詰製造のトリート(1877・明10来日~)などが招かれており、ケプロンを筆頭に48名の「お雇い外国人」がアメリカ人でした。

■西南戦争への参戦
  1873年(明治6年)征韓論に敗れた西郷隆盛は、故郷鹿児島に帰ります。各地に士族反乱が起こり、西郷は薩摩士族12,000を擁して、各士族グループの反政府軍を率いて、1876年(明治9年)1月北上し、2月「西南戦争」最大の戦場、政府軍が守る熊本城の攻防となります。黒田軍の奇襲攻撃などもあり、3月20日、田原坂の激戦で政府軍が西郷軍を撃破しで帰趨が決します。以後、西郷軍は鹿児島まで後退を続けて、9月24日「城山」も陥落し、西郷らが自刃して約半年におよぶ戦闘は終結します。政府軍58,600に対して、西郷軍の総兵力3万余・戦死約6,000・戦後処罰2、760(斬罪22)といわれます。
  (この「西南戦争」には、北海道から屯田兵も政府軍の一翼として出征しました。准陸軍大佐堀基・准陸軍少佐永山武四郎が、琴似・山鼻の屯田兵を率いて、人吉の戦闘に参加して西郷軍を撃ち破り、百姓部隊と蔑視されていた屯田兵の勇名をとどろかせたのです。)
  黒田が戦場から帰ると、やせ細った妻せいと養女百子が出迎えます。翌明治11年(1879)3月28日、妻せいは亡くなります。肺結核で喀血して夜具には血が滲んでいたといわれます。しかし、黒田がもともと酒豪であり、失態もあったことから、「黒田が酒に酔って妻を殺した・・・」という風説が流れていました。しかし、黒田は、亡き妻の位牌を守ってこの家をでることはなかったのです。養女百子は成人して、1877年(明治20年)に、陸軍少将黒木為基に嫁ぎ、黒田はひたすらその幸せを願っています。後、黒木は陸軍大将となり日露戦争で活躍、百子も賢夫人となって一家を支えています。
  黒田は、またロシアの文化に対しても大きな関心をもっていました。榎本が日本の全権公使として、ロシアから、氷のとり方・毛皮加工・ペチカの構造などを報告しています。開拓使の貴賓用ホテル「豊平館」(明治13年)も、アメリカの建築様式を基調に、榎本がロシアから送った図面も取り入れて建築されたものだということです。
  黒田は、1878年(明治11年)、ウラジオストックで開催した「北海道見本市」にでかけて、馬車・馬橇・馬の冬蹄鉄などを持ち帰り、また樺太コルサコフ(大泊)から防寒具・ペチカ・丸太家屋を調査して、その大工3人を雇用するなどしています。またストーブの使用や石造り・レンガ造りの建築をすすめ、札幌石山軟石の建築には補助金まで出したといわれます。明治12年函館大火の時には、自宅用に用意してあった建築木材を東京から函館に全部送らせたそうです。
  1878年(明治11年)5月14日、明治の元勲大久保利通(1830-1878)の馬車が紀尾井坂で暴徒に襲われ刺客6人によって暗殺されます。49歳でした。黒田は、西南戦争で、崇敬する先輩西郷を死に追いやり、いままた、兄とも慕う大久保を失ったことに、大きな衝撃と絶望感を覚えたのでした。
  1881年(明治13年)12月10日、黒田(41歳)は、本所の木材商丸山伝右衛門の三女滝子(18歳本所小町と評判の美女)と結婚し、3年後に娘梅子・55年後に嗣子清仲を授かります。1888年(明治21年)4月、黒田(48歳)は、第2代内閣総理大臣になります。翌年「大日本帝国憲法」が制定されます。1889年(明治22年)10月、総理大臣を辞め、枢密顧問官となります。
  1895年(明治28年)2月、枢密院議長となります。このころ、農商務大臣を退いた榎本から、自分の長男武憲(東大卒・27歳)の嫁として、梅子(17歳)をもらい受けて黒田の恩義を子々孫々まで伝えたいという申し出があります。黒田は感激して応諾し、1898年(明治31年)暮れ、この二人の結婚式が行われています。晩年の黒田は、脳溢血、坐骨神経痛などに苦しんでいました。次第に坐骨神経痛が悪化して不眠が数日続き、実家に戻って看病していた梅子に看取られて、1900年(明治33年)8月23日、永眠しました。享年59歳。葬儀委員長は、生涯の盟友榎本武揚でした。また元札幌農学校生内村鑑三も熱烈な弔辞をささげたということです。火葬にして東京の青山墓地に葬られましたガ、お墓は、札幌穴の沢(石山)産の石を取り寄せて造営されていたそうです。そして、8月25日に従一位大勲位菊花大綬章を授けられています。

■結び
  黒田の北海道開拓計画がなければ、ケプロンの招聘も札幌農学校の開校もなく、クラーク博士も札幌にこなかったでしょう。そして内村鑑三も新渡戸稲造も世に出なかったでしょう。
 1906年(明39)大通公園に銅像が建てられましたが、1943年(昭18)戦争の資材として潰されました。そして、1968年(昭43)、北海道開道百年を記念して大通公園10丁目に東面して、「黒田清隆」「ホーレス・ケプロン」の銅像が建てられました。以来、二人の像はいつも札幌の街を見つめています。
 
   

ホーレス・ケプロンの像 (背面の碑文) 
左側の像 [大通公園西十丁目]

 ホーレス・ケプロンは、アメリカ合衆国の人。明治四年わが国政府の招きに応じ、合衆国農務長官の要職を辞して、開拓使教師頭取兼顧問となり北海道開拓の大業に参画した。すなわち、多くの外国人技師を指導して本道の実情をきわめ、卓越した識見と豊かな経験に基づいて、北海道開拓の基本方策を進言し、開拓長官をたすけて、その実現に努めた。その勲業まことに偉大である。
ここに、北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を永く後代に伝えるため、この像を建立する。
昭和四十二年十月
北海道開拓功労者顕彰像建立期成会
会長 廣瀬 経一


黒田 清隆の像    (背面の碑文)  
右側の像 [大通公園西十丁目]

 黒田清隆は鹿児島県の人。明治三年開拓次官、のち開拓長官に任ぜられ北海道開拓の大任にあたった。清隆はその性、明察果断にして、開拓の知識を先進国に学ぶ必要を痛感し自ら海外におもむき、知見を広めるとともに、ホーレス・ケプロンをはじめ、多数の外国人技師を招き、その進言を入れ着々開拓の巨歩を進めた。
北海道開発の基礎は、まさに清隆の卓見により確立したものといふべく、その勲業まことに偉大である。
 ここに北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を永く後代に伝えるため、この像を建立する。
昭和四十二年十月
北海道開拓功労者顕彰像建立期成会
会長 廣瀬 経一

<主な参考文献及び参考資料>
□「黒田清隆とホーレス・ケプロンー北海道開拓の二大恩人―その生涯と業績」逢坂信忢著 北海タイムス社   □「黒田清隆―埋れたる明治の礎石」 井黒弥太郎著 みやま書房  □ 「黒田清隆」 井黒弥太郎著 日本歴史学会編集 吉川弘文館   □「青雲の果てー武人黒田清隆の戦い」奥田静夫著 北海道出版企画センター   □ 「新版 黒田清隆関係文書(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)」 犬塚孝明・大島明子・広瀬順晧編修 北泉社   □ 「北海道開拓をけん引した人 黒田清隆」 奥田静夫著 屯田第54号 北海道屯田倶楽部  □ 「維新 北海道人物伝 黒田清隆」 青山佾著 旬刊時事ジャーナル  □ インターネット資料 他





姉妹提携20周年記念 プレ・フォーラム [ 記 録 抄 ]
日 時 平成21年9月19日(土) 13:30 ~ 16:15
会 場 道庁赤れんが庁舎 2階会議室(札幌市中央区北3条西6丁目)
後 援 在札幌米国総領事館、北海道、北海道日米協会、(社)北方圏センター、
(財)札幌国際プラザ、北海道国際女性協会、北海道女性国際交流連絡協議会

 2010年は、北海道と米国マサチューセッツ州が1990年に姉妹提携関係を結び学術・文化・経済・市民交流などの活動を続けてきて、ちょうど20周年の節目の年に当たります。 このことを踏まえて、今年から来年にかけて、いくつかの記念事業を計画しています。まず、最初の記念事業として、プレ・フォーラムを開催しました。紙面の都合により、ここには、シンポジウム「北海道の近代化とマサチューセッツ人脈」の各スピーカーの発表要旨をご紹介いたします。

シンポジウム:テーマ「北海道の近代化とマサチューセッツ人脈」ー発表要旨ー

① 御手洗昭治
(札幌大学教授、日本交渉学会会長、北海道日米協会理事、北海道・マサチューセッツ協会会員)

「黒船以前の日米関係の夜明け:マサチューセッツ出港船と日本」 

―以下で取り上げるアメリカ船「レディ・ワシントン号」と「キャップテン・ケンドリック」の
内容は、筆者が1994年に出版した『黒船以前:アメリカの対日政策はそこから始った!!』
(第一書房)、並びに「サムライ異文化交渉史」(ゆまに書房,2007年)に基づくものである。―

今回の発表では、独立以後のアメリカの対日・アジア政策の動向についてマサチューセッツ州を出港し、オレゴン州にも立ち寄り最初の日米貿易交渉に臨んだジョン・ケンドリック船長にフォーカスを当てながら黒船来航以前の日米関係の夜明けについて若干の考察を試みたい。

  15世紀の大航海時代以来、イギリスをはじめとするヨ-ロッパ列強とアメリカは、相互の関連を深めるようになり序々に世界の一体化へと歴史の歩みは進んでいった。アメリカは、1776年経済学者のアダム・スミスが「国富論」を出版した年に独立宣言を公布し その後、1780年代からは中国貿易に関心を示し始めた。多くの歴史学者は、中国貿易に関しての活動は商人にまかされ、アメリカ政府としては積極的な支援を与えていなかったと指摘する。しかしながら、ハーバード大学の政治歴史学者のアーネスト・メイは「当時、アメリカ の政府高官であり、後の米国大統領になったトーマス・ジャファソンだけは別であった」 と主張する。
  それを裏づけるのが、二隻の帆船の日本への来航である。当時共和国であったアメリカ国旗を掲げ、これまでの通説とは違いアメリカの私免許状(的国船舶の拿捕を許可した政府発行の免許状)を保持し、州議会から公的な役割(東洋貿易の振興)や支援を得て日本に初めて来航したのは、1791年のキャプッテン・ケンドリックと副官のロバ-ト・グレイ率いるブリガンディ-ン型(二本マスト)帆船「レディ・ワシントン号」とスル-プ型(一本マスト)の帆船「グレ-ス号」である。ハーバード大学の歴史学者でケネディ政権時代に駐日アメリカ大使を務めた故エドウイン O.ライシャワ-氏と同じくハーバード大学の歴史学者であるアルバ-ト・クレイグ氏も、上記の二隻に ついて次のように述べている。
「早くも一七九一年には、二隻のアメリカ船が日本の領域に進出していた。そして、一七九七年には、東インド会社のオランダ当局にチャーターされたアメリカ船が破損した自らの船を補充するために長崎に入港した。1837年には広東のアメリカ商人が、小型船のモリソン号を日本に向け出航させた・・・。」
[As E.O.Reischauer & A.M.Craig at Harvard briefly illustrated], As early as 1791 two American ships had entered Japanese waters, and in 1797 another visited Nagasaki, chartered by the Dutch authorities in the East Indies to replace their own ships, cut off from them by the Napoleonic wars. An American businessman in Canton dispatched a small vessel, the Morrison, to Japan in 1837 to repatriate seven Japanese castaways and through this act of good will, to open up relations with Japan, but the unarmed ship was fired on by the Japanese and driven off(御手洗 昭治『サムライ異文化交渉史』 )

このライシャワーとクレイグ両氏が指摘している1791年にウイリアム・スチュア-ト船長 のニューヨーク船籍「エリザ号」以前に日本の紀伊の大島に「貿易交渉」のために来航した二隻のアメリカ船とは、一隻がケンドリック船長率いる90トンの「レディ・ワシントン号であり、ほかの一隻とは、その船に伴い、副官のウイリアム・ダグラス船長率いた「グレース号」のことである。「黒船」を率いて那覇経由で江戸湾に来航したペリ-提督より遡ること62年前の寛政3年、3月の出来事である。

  また、歴史家のデネットはアメリカ国旗は掲げていたもののオランダのチャーター船として長崎に入港した「エリザ号」について以下の説明を加えている。
The relations between the Dutch and the Americans became very friendly, and when the newly created Batavian Republic hesitated to trust the annual Company ship to Nagasaki under a flag which the British might not respect, the Eliza, under the America flag, was charted for the voyage(1789). For several years thereafter the American flag appeared regularly in Japan each season, and when the Department of State, in 1832,began to assemble information with a view to treaty relations with Japan, it was mainly through Dutch sources and through Americans who, in the employ of the Dutch, had been to Nagasaki, that the information was secured.(御手洗 昭治『黒船以前』)

紀州における日米の夜明けと日米交渉のプレリュード

  英文の歴史資料によれば、ケンドリック船長一行は、紀州の南の海岸に到着し、土地の人々から歓迎を受けた記録が残されている。
  「ケンドリック船長は、ここで米国国旗を掲げたが、この方面でアメリカ国旗が翻ったのは、おそらくこれが初めてのことであろう。一行は中国から日本へ良質のラッコの皮を二百枚ほど積んではいたものの、日本側はその使い方をまったく知らなかった。」このためアメリカ側のペリ-以前に行なわれた最初の対日交渉は成立にいたらなかった。
  「その後、二、三日航海し、一行は一群の島々を発見した。島の住民が水を売りにやってきたので、この島を『水島』と名付けたのである。日本側はむろん、この島の住民たちと我々一行の中国人とは言葉を通してのコミュニケ-ションは困難であった。しかし、文字を通しての意思疎通ではお互いによく理解し合えた... 。」
   また「外国通覧」によれば、船には紅毛人50人のほか、黒人(アフロ・アメリカン)20人、中国人5人ほどが、乗船していたと記録されている。彼等は酒を飲み、踊りごとを毎朝行なっていたようだ。そして、一行は木綿桶で水を取り、漁師にサイン入りの一書を渡した、内容の中身には何が記述されているかは定かではないが、「アメリカ合衆国のニュ-・イングランド、ボストンのブリック型帆船『レデイ・ワシントン号』指揮官、ジョン・ケンドリック」と示されてある。
  一外船左ノ一書ヲ渡シタル由
本船乃堤紅毛船、地名花其載、貨物乃堤銅銕 (鉄)乃火炮五十員在中華國赴皮草國
而去無経貴地、偶遭風浪、漂流至此、在貴地、不過三五日之間、不好風而在此、好風
即日去本船人一百口、貨物實銅銕並無別物、船主名堅徳力記、此外蘭文モアシトナリ

  なお、紀南遊嚢という歴史録は、信州高遠の藩士で砲術家であった坂本天山によって記録されたものであるが、ケンドリック一行の樫野浦を含む十一日間の滞在中の動向を知る上で、興味深い情報を提供している。以下は坂本天山が、和歌山の泰地(太地)で捕鯨状況等を視察し陸路伊勢それに三重県の伊賀を経て大阪まで帰るまでの事が書かれており、その中に、高芝村の医師であった伊達李俊から十年程前に「アメリカ船二隻の大島立寄りの件を聞き書かされた文章があるのでその分原文から抜粋」と記述された歴史録の一部である。

前文省略....須恵(須江)加志野(樫野)其ノ間ニ大島ト云フ島アリ、島ヨリ外ヲ
乗リ通ル、此ノ大島へ八十年前、外国ノ船二艘カカリテ、夜ハ大砲ヲ、昼ハ山ヨリ
布ノ袋ニテ船中ヘ水ヲ取リ、大島ノ木ヲ薪ニトリテ積ミ込ミ出デ走リシ処也
此異国船ノ事、江戸ヨリ風説ニテ、郷国(信州高遠)ニ居タリシ時、聞キ及ビシコ
トナリシガ、今度其ノ筆談ニ出タル伊達李俊(李俊ハ維徳軒ノ嗣ナリ)ガ語りシハ、
大島ノ沖ヘ十三段ニ帆ヲ掛ケシ異国船リ....以下略。
「須恵と樫野の間に、大島と云う島がある。その島の沖合に八十年前(寛政三年)、外国船二隻が、姿を現した。夜には、大砲を響かせ、日中には、山より木綿樋で水を取り船まで運び、大島の木を薪として船内に積み込み、船は出発したのである。

日米の数少ない文献で一致している点は、その殆どが日米親善の始まりともいえる「レディ・ワシントン号」による日本寄港を、一アメリカ商船による日本「漂着」として捉えていることである。 しかし他方、ホスキンズの日記は「ケンドリック船長は、3月にラークス湾よりニューヨーク出身のダグラス船長を伴って出港。そして、「レデイ・ワシントン号とグレイス号は日本の南に位置した(紀伊半島)の港に入港。地元の人々から大歓迎を受けた。そこでケンドリック船長は、その地で最初ともいえるアメリカ国旗を掲げたのである。彼等は、日本まで二百枚ほどの上質のラッコの皮を運んだのであるが、地元の日本人は、毛皮の使用方法をしらなかったのである。その後、数日間は、島の回りを航海。そして一群の島々を発見した。島の人々が水を売りに出向いて来たので、因みにこれ等の島を「水の島」と名付けることにした。ただし、それ等の島々は海図にも載っていない。他の日本人はむろん、島の住民たち、それに中国人(の乗組員達)は、お互い言葉によるコミュニケーションでは問題があった。しかし、文字を通しては、かなりの意思疎通ができたのである。これらの島々での滞在期間は短いものであった。これら二隻の船は島々に別れを告げた後、離れ離れになりながらアメリカ北西海岸を目指して進んでいった」と記録している。

  筆者が1975年オレゴン州ポ-トランドにおいて「レディ・ワシントン号」に関する祝典に参加した後、リチャ-ズ女史が記載した英文も上記のホスキンズの日誌の一部を使用して「レディ・ワシントン号」の歴史的日本来航を歴史に残るシンボリックな出来事として記述している。以下がリチャ-ズ女史の記録である。日米関係はそこから始まったのである。
Lady Washington came to be the first American ship to land at a port in Japan in 1791,some 62 years prior to the entry of Commodore Perry and the official contact between the two nations in 1853. It is doubtful that Capt. John Kendrick, then in command of the "Lady Washington" realized the historic significance of the event when he anchored at Ohshima in the port of Kushimoto, 184 years ago.
[Hopkins gives the following epitome of the voyage:]"Captain Kendrick left Larks Bay in March in accompany with the Grace of New York Captain Douglass New York Captain Douglass they went into a harbor on the southern coast of Japan where they were received by the natives with the greatest hospitality.Here Captain Kendrick displayed the American flag which is probably the first ever seen in that quarter(御手洗 昭治『黒船以前』)



② 佐々木 晴美   (北海道・マサチューセッツ協会理事、北海道日米協会会員)

「北海道の近代化とマサチューセッツ人脈」


  明治維新は、世界史の中で次のように捉えることが出来ましょう。すなわち、16世紀に始まった大航海時代とヨーロッパの膨張、収奪されるインデイオと残酷な黒人奴隷貿易、ヨーロッパによる世界制覇、産業革命により生み出された新しい生産・輸送システムを含む資本主義経済の出現、アメリカ独立戦争とフランス革命、議会が主権を持つ国民国家の出現、列強による植民地化とそれに反発する独立運動、ロシアの南下・東方への侵出などの世界情勢の流れの中で起こった日本の政治的・経済的・社会的な大変革と捉えることが出来ると思うのです。直接的には、18世紀のインドの植民地化をめぐるイギリスとフランスの抗争~イギリス側の勝利とインドの完全植民地化(1877)、1840~1842年のイギリスと清朝との間のアヘン戦争と南京条約締結、1851~1864年の清朝における「太平天国」とイギリス・フランスと清朝との間のアロー戦争勃発などのアジアの動向、特に、これらのアジア情勢の中での清朝の衰退に江戸幕府のみならず東シナ海に面した雄藩が強い危機感を抱いていた状況の中で、1853年、1854年のペリー艦隊の来航を迎えたことが大きく影響したと言いえましょう。その後、1853~1856年のクリミヤ戦争でオスマントルコ帝国とイギリス・フランス・サルディ二ア王国との連合軍に敗れ、トルコへの南下に失敗した後、1858年には清朝との間にアイグン条約を締結してウスリー江東部を両国の共同管理地とし、1860年にイギリス・フランス両軍が北京を占領した際に、清朝とイギリス・フランスとの和約に仲介の労をとったとして、露・清北京条約を締結し広大な沿海州を割譲させ、しかも、その翌年には、日本海に臨む不凍港都市・ウラジオストク(「東方を支配せよ」の意味)を建設したロシアの膨張にも、早くからオランダを通して最近の世界情勢を伝える「風説書」を受け取っていた江戸幕府が危機感を抱いたであろうことは容易に推察できます。
  かくして、欧米の主権国家を手本とし、集権的官僚制の確立、法体系の整備、領土の確定、富国強兵、殖産興業を基本政策とした明治新政府にとって、日本の北辺に位置してロシアと国境を接し、約83,000平方キロメートルの面積を有する北海道の開拓~近代化は、最重要課題の一つでした。
  明治新政府は、明治2(1869)年9月、開拓使を設置し、北海道の本格的な開拓に着手しました。明治4(1871)年1月、開拓使次官であった黒田清隆がアメリカに渡り、当時のグラント大統領に面会し、開拓使顧問の招聘を依頼し、その結果、農務局長であったホーレス・ケプロン(1804~1885、当時67歳)が大統領によって指名され、同年3月、開拓使顧問契約が成立しました。同年7月、ホーレス・ケプロンは、秘書エルドリッジ、科学技師アンチセル、土木技師ウオーフィールドを伴い横浜に上陸したことは広く知られています。この時、東京で、彼等一行は宮中吹上御所に招かれ、明治天皇に激励の言葉を受けています。また、離日に際しても、明治天皇が、彼等を招き、その労をねぎらっておられます。このことからも、当時の明治新政府が北海道の開拓~近代化に、いかに真剣に取り組んでいたかがわかります。
  ホーレス・ケプロンらが、3年10カ月の日本滞在中に行った各種調査に基づいて作成した「ケプロン報文」は、その後の北海道の開拓~近代化に関する重要な指針となりました。当時のアメリカ合衆国政府の重要な地位にあり、かつ、高齢であったにもかかわらず、明治新政府が、近代化に向けて全力を傾注していた状況を受け止め、殆ど未開の地であった北海道の開拓~近代化に向けて大きな貢献をされたホーレス・ケプロンは、北海道とマサチューセッツ人脈を結ぶ原点となりました。
  なお、北海道の開拓~近代化に際し、ケプロンは基礎的事業重視・独立自営殖民・民営・自由主義の立場に立ったのに対し、黒田は国の財政事情などから収益を上げる事業を重視し、民間資本力の脆弱から官営・保護主義の立場(渡航料や鍋釜の支給、営業や家を建てるための資金の貸与、食料の支給など)に立ったと言われます。明治政府が採用した黒田の方針が、後年の北海道の官依存体質の原点となったと思われます。

  北海道とマサチューセッツ州の今後の交流の進め方については、「異文明の融和・融合~世界平和のための国際フォーラム」の北海道・マサチューセッツ州共同開催を提案します。
(趣旨) 明治維新後、開拓使顧問ホーレス・ケプロンに端を発するアメリカ、特に、マサチューセッツ人脈の助言と指導を通して、欧米文明との融和・融合を図りながら、その近代化を進めてきた北海道とマサチューセッツ州の政府・関係団体・識者らが協働して、「異文明の融和・融合~世界平和のための国際フォーラム」(開催要領は筆者作製別紙)を開催し、21世紀に入っても、なお、何の罪もない多くの市民、とりわけ、女性や子供達に不条理な死と苦難の日々を強いている異文明間の対立・抗争の悲劇的な状況を、現今の世界の英知を集め、少しでも融和・融合~世界平和の方向に転換するための方策について、地球史的・人類史的視点に立った議論・考察を行い、それに基づくメッセージを国際社会に発信することにより、世界の平和に寄与することを目指す。



③ 中垣 正史 (北海道・マサチューセッツ協会理事・事務局長)

-世界にむけて開かれた目ー「北海道の近代化とマサチューセッツ人脈」<資料として記録圧縮>

 
1、幕末から明治新政府へー日本の近代化への原動力となった人たちのほとんどが欧米の留学生
◆薩摩藩英国留学生―1865年(慶応元年)3月、15名の留学生と4名の使節団を英国に派遣
森有礼→駐米公使(少弁務使)。初代文部大臣。 村橋久成→戊辰戦争の砲隊長として活躍、その後開拓使へ(1874・明7琴似屯田兵屋208戸建設、1876・明9中川清兵衛技師とサッポロビール創設)。など
◆長州藩青年5名密出国→1863年(文久3年)5月、藩黙認で英国留学。井上馨→薩英戦争勃発により翌年帰国。大蔵大臣。殖産興業に尽力、財界に大きな力を持つ.伊藤博文→薩英戦争勃発により翌年帰国。初代内閣総理大臣。憲法草案起草。など
◆岩倉使節団の派遣<1871年(明治4年)11月12日~1873年(明治6年)9月13日>
米国・ヨーロッパ各国(12カ国)へ1年10ヵ月、岩倉具視(46歳)他107名派遣
ー1864元治元年函館から密航米国留学していた新島襄(28歳)が通訳として同行ー

2、明治政府の開拓使設置―北海道の近代化へのステップ
◆明治2年(1869) 7月、明治政府の開拓使設置 ―同年8月蝦夷地を北海道と改称。
黒田清隆が、明治3年(1870) 5月開拓次官となり、明治7年(1874) 8月には、第三代開拓使長官となり開拓使廃止直前<最後の開拓長官西郷従道は、明15,1,11-15,2,8の短期在任>の明治15年(1882) 1月まで、本道行政の直接の責任者として活躍。北海道の開拓の基礎を築いた最大の功労者。―明治4年(1871年)1月、開拓次官黒田清隆(31歳)、留学生7名とともに渡米<2月12日~6月7日)、森有礼(30歳・駐米公使)とともにグラント大統領(49歳)に開拓使顧問の招聘を依頼、米国農務省長官ホーレス・ケプロン(1804-1885、当時67歳)の顧問契約を成立させる。(この間、英・仏・蘭を経て露に至り、帰路米国で機械等を購入)。合計78人の外国人(そのうちアメリカ人48人)を招いて北海道開拓に欧米の先進技術を導入したのも黒田の高い識見によるものでした。
  ホーレス・ケプロン<1871年(明治4)8月25日来日~1875年(明治8)5月23日離日>は、明治4年(1871年)8月、秘書エルドリッジ、科学技術師アンチセル、土木技師ワ―フィールドを伴って来日。滞日約3年9カ月。アンチセル、ワーフィールドの開拓予備調査、ケプロン自身の3回にわたる道内各地の長期視察・調査を通してまとめられた「ケプロン報告書」(①明治4年(1871) 11月、②明治6年(1873) 11月、③明治8年(1875) 3月)、さらに離日に際して、開拓使に提出した「報文要略」は、その後の北海道開拓の重要な指針となります。

3、ケプロン山脈・・・マサチューセッツ人脈(アメリカ人指導者たち)
 ケプロン<年俸10,000ドル>は来日に際し、工学・地質・鉱学関係担当の技師として合衆国農務省に勤務していたアンチセル、測量・土木関係担当の技師としてバルチモア・オハイオ鉄道に勤務していたワーフィールド、それに書記兼医師としてジョウジタウン医科大学解剖学助手・合衆国農務省図書館司書をしていたエルドリッジという優秀なスタッフを同行しました。
 ケプロン在任中のお雇い外国人の大半は、ケプロンの推薦・承認のもとに採用されたこともあり、多くのアメリカ人技術者が中心となったようです。 地質・測量・鉱山開発のベンジャミン・S・ライマン<年俸7,000ドル>(1835-1920)<1873・明6、1,18来日~1880・明13、12,22離日・滞在6年半> 助手マンロー(1872・明5来日~後,コロンビア大学 学部長)、農業・牧畜のボーマー(1871・明4来日~) オハイオ州の牧畜酪農家エドウィン・ダン(1848-1931)<1873・明6、7来日・25歳~明9,6来札―明15,12離札~1931・昭6、5,15東京自宅死去> などがよく知られています。明治9年(1876)6月、エドウィン・ダンは、園芸担当のボーマーと共に札幌官園に転勤し、直ちに真駒内牧牛場の建設に着手、搾乳場・乳製品加工場・用水路など、牧場の施設が整備していきます。
ケプロン帰国後も、札幌農学校関係では、 初代教頭・農学・化学・数学のウィリアム・S・クラーク<年俸7,200ドル>(1826-1886)<1876・明9、7,31来札・当時50歳~1877・明10,4,16離札・滞在8ヵ月16日>、土木工学・数学・第2代教頭で、時計台・モデルバーン・ 豊平橋などを設計したウィリアム・ホイーラー<年俸3,000ドル>(1851―1932)<1876・明9、7,31来札・当時25歳~1879・明12,12帰国・滞在3年半>、 化学・農学・数学・第3代教頭で、石鹸・ローソク・マッチ・コークス・魚油などの製造実験をしたディヴィド・ペンハロー<年俸2,500ドル>(1851-1932)<1876・明9、7,31来札・当時22歳~明13,8・滞在4年間>、農学・官園監督・第4代教頭で、丘珠タマネギ・トウモロコシ・カボチャ・トマト・キャベツなどを栽培したウィリアム・ブルックス<年俸2,500ドル>(1851-1938)<1877・明10、2来日・当時26歳~明21・滞在10年7ヶ月>、生理学・解剖学・病院医術顧問で札幌の病院施設の充実・学校の身体検査の創始などに努めたジョン・C・カッター(1851-1909)<1878・明11、9来日~1887・明20,1・滞在8年4ヶ月。ー死後1910年、遺言により札幌市に寄付された500ドルをもとに1938年・昭13に大通西5「聖恩碑」四隅にカッターさんの水飲み場が設置されている>、 数学・土木のピーボディー(1878・明11、12着任~明14,7離任)、 サマーズ(1880・明13、6着任ー明15、6離任)、 ストックブリッジ(1885・明18、5着任ー明22、1離任)、 ヘート(1888・明21、1着任ー明25・8離任)、ブリガム(1889・明22、1着任ー明26、11離任。<外国人教師の最後>)など合計10名を迎えています。これら札幌農学校初期の米国マサチューセッツ州出身の教師は、総じて勤勉で献身的に職務以外の仕事にも非常に熱心に取り組み、ほんとうに北海道開拓期の立派な指導者でした。
  また、茅沼・幌内炭鉱のゴージョー、ダウス(2名、1879・明12来日~)、 鉄道敷設・土木顧問のジョセフ・クロフォード(1878・明11来日~)、 水産加工・魚肉缶詰製造のトリート(1877・明10来日~) などが招かれており、ケプロンを筆頭に、78名の「お雇い外国人」中48名がアメリカ人でした。
■ケプロンは、1871年(明治4年)9月、早速、東京に農事試験場「官園」3ヶ所設置して、アメリカから輸入した動植物を管理し、同時に北海道の七重・札幌にも官園を設置。札幌では、札幌本庁敷地北側に3600坪(後に40万坪に拡大)の「御手作場」を設け、種々の農作物を栽培。「葡萄園」「ホップ園」「果樹園」なども設けられる。その後、1876年(明治9年)には、この官園のうち、30万坪が札幌農学校農場に移管される。
 開拓使は、ケプロンの献策により、札幌市内大通ー北1条・東1丁目ー東4丁目を工業ゾーンとして、多くの「官営工場」を建設する。現在のサッポロビールの原点「開拓使麦酒醸造所」がこの地に誕生する。
■ケプロンの進言を受けて、1872年(明治5年)3月開拓使「仮学校」開校。1875年(明治8年)9月札幌に移転して「札幌学校」とし、翌年(明9)8月14日クラーク博士一行を迎えて「札幌農学校」が開校されます。


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