北海道開拓の基礎を築いた指導者たち -11-

HOMAS NO,56 (2009,3,20発行)
北海道及び11カ 国86郡の名付け親 松浦武四郎の生涯
- 幕末の探検家・6度にわたり蝦夷地を踏査・膨大な著作をのこした「北海道人」-

■まえがき
  江戸中期の蝦夷地は、ロシアの南下政策でロシア船の寄港・上陸が相次ぎ、日露の緊張は、幕府・明治政府にとっては脅威でした。ロシアは、18世紀初めごろから、カムチャッカ半島を開き、千島・樺太を南下して蝦夷地に接近してきます。1792年(寛政4年)には、漂流者大黒屋光太夫を伴ってラクスマンが、1804年(文化元年)にはレザノフが、使節として根室・長崎に通商を要求してきました。一方、幕府の北辺防備の対策としては、1783年(天明5年)幕吏最上徳内をエトロフに、大石逸平を樺太に派遣、そして1798年(寛政10年) 幕吏を配置、近藤重蔵をエトロフに派遣、翌年東蝦夷を直轄領とし、1802年(享和2年)函館伊東一円を幕府直轄地として函館奉行をおいています。その後、1811年(文化8年)千島測量中のディアナ号艦長ゴローニン捕縛事件がありましたが、高田屋嘉兵衛の活躍などによって、ロシアとの緊張状態は一時的に緩和されます。他方、寛政・文化年間に間宮林蔵が蝦夷・樺太を探検して、樺太が島であることを確認、また1817年(文化14年)、伊能忠敬は、蝦夷地も含めて日本全国の沿岸測量をして実測図(日本地図)を完成しています。
  こんな時代背景のなかで、松浦武四郎(1818-1888)は、16歳の時から全国各地を旅し、名所旧跡などを訪ねて、丹念にその概略や名所・旧跡の様子のスケッチやメモなどを残しています。遠く中国・インドを目指すも鎖国制度のため断念。長崎でロシア南下政策の危機を知り、蝦夷地(現在の北海道)を目指すことを決意したといわれます。武四郎は、1845年(弘化2年)28歳、初めて蝦夷地に渡ります。以後探検家として3回、幕府・明治政府役人として3回、合計6回・15年間にわたり、アイヌの人びとの案内を得て、寝起きや食事も共にしながら、海岸線から内陸部まで隈なく探検して、記録や地図を書き残しています。ここでは、蝦夷・樺太・千島探検の第一人者として天下にその名を知られた「松浦武四郎」の蝦夷地探検の業績に光を当ててその生涯をたどってみたいと思います。
  出身地三重県では、俳人松尾芭蕉、国文学者本居宣長と並ぶ三偉人と称されますが、松浦武四郎の知名度は、生地よりも北海道内の方が高いようです。彼の生地、三重県松阪市小野江町(旧三雲町)が「松浦武四郎記念館」(1994年・平成6年開館)を設立したのは、北海道内の研究者による武四郎の業績の高い評価が大きな影響力になったようです。

■松浦武四郎の生立ち
  松浦武四郎は、1818年(文政元年)2月6日、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野恵町)の郷士で庄屋をつとめる松浦桂介の四男(末子)として生まれています。幼名は竹四郎で、40才ごろから武四郎と書くようになり、後年、多気志楼の号も用いています。父は、本居宣長の門下として国学を修め、茶や俳諧もたしなむ人物であったようです。武四郎は、7歳で曹洞宗真学寺の来応和尚について手習いや誦経などを習いおぼえています。1830年(文政13年)13歳で、津の儒者平松楽斎の塾に入門、「論語」などを学んで、大きな影響を受けますが、1833年(天保4年)1月平松塾を退塾して家に帰り、2月1日出奔して江戸に下り、山口遇所に「篆刻」を学んでいます。しかし一ヶ月ほどで郷里からの迎えがきて帰郷します。帰途は中山道を通り、迎えの者を先に返して、一人戸隠山・御岳(3,076m)に登っています。この時山に登る喜びを知り、この16歳の時の経験が生涯の一転機となったといわれます。    
  1834年(天宝5年)9月、諸国遍歴の旅に出ます。近畿・北陸・中国地方をまわり諸名家を訪ねます。四国八十八ヶ所霊場もすべて巡り、さらに九州地方もことごとく踏破して足かけ5年の行路を経て、1838年(天保9年)1月長崎で疫病に罹り周囲の人々の介抱を受けて死地を脱します。3月22歳で出家し、平戸の寺院で住職になります。武四郎白の生涯を通じてこの3年だけが静穏・平安な日々であったようです。この間、壱岐・対馬に渡り、さらに朝鮮の山に登ってみたいと思うのですが、鎖国時代で、朝鮮へ渡ることは当時としては国禁でした。この長崎時代に、いろいろな人びとと交流し、ロシア南下政策の危機を知り、蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の探検を決意したのでした。武四郎は10年ぶりで実家に戻り、北方探検に出かける前に、すでに亡くなっていた父の7年忌・母の3年忌法要をすませています。
  探検家武四郎は、身長150センチメートルほどの痩せ型・小柄ですが、並外れた健脚の持ち主で あったようです。彼は、生来感情の強い人で、「短気で精悍」「強情、負けん気」な性格であったといわれます。武四郎は、小さな羅針盤一つを携行するにすぎず、測量する場合は高い所に立って目測したり、実際に自分で歩いて歩測したといわれます。

■蝦夷地の調査
1844年(弘化元年)1月還俗し、2月蝦夷地を目指して青森まで行きますが、取締りが厳しく断念します。そしていよいよ、翌年から15年間にわたる蝦夷地の探検が始まります。

  1回目 1845年(弘化2年)4月、28歳、初めて蝦夷地に渡り、太平洋岸地域を歩き知床岬の先端まで到達し、自分の名前を墨書した「勢州一志郡雲出松浦武四郎」という標識を立てています。11月江戸に帰って直ちに「初航蝦夷日誌」の記録整理に精力を傾けます。

  2回目 1846年(弘化3年)3月からの二回目蝦夷地調査では、西蝦夷地・北蝦夷地(樺太)などを調査。この間武四郎は、蝦夷地に先住していたアイヌの人びととの交わりを通して、アイヌ語(蝦夷語)を勉強しています。11月江差で頼山陽の四男・頼三樹三郎と会い、冬至の日に「一日百印百詩」の書画会を催しています。翌年北陸を巡って11月中旬江戸に戻り、探検記録の整理と蝦夷に関する著述に専念します。

  3回目 1849年(嘉永2年)32歳、三回目の蝦夷地調査では、千島の国後島・択捉島を調査。このときは、武四郎のアイヌ語はもはやほとんど不自由を感じないまでに上達していたようです。
翌1850年(嘉永3年)以降著作に専念し、調査記録「初航蝦夷日誌」12巻・「再航蝦夷日誌」15巻・「三航蝦夷日誌」8巻(合計35巻)を完成します。また「三航蝦夷全図」・「蝦夷語」なども完成。
さらに「蝦夷大概図」を著しますが、これはわが国最初の北海道全図といわれます。しかし、これらの発刊に憤慨した松前藩などからつけねらわれるようになります。


1853年(嘉永6年)36歳、吉田松陰と海防問題を語り合う
・「初航・再航・三航蝦夷日誌」を水戸の徳川斉昭に献上、松前藩の恨みを買う。
・1854年(嘉永7年)宇和島藩の依頼で下田で、再来航海のペリー一行の様子を調べる。


  4回目 その後、幕府から「蝦夷地御用御雇入」の命を受けて、翌1856年(安政3年)、四回目の蝦夷地調査では、北海道の海岸線と樺太を調査。この時、徳川斉昭から餞別五両をいただいています。「丙辰蝦夷日誌」・「東西蝦夷場所境取調書」・「蝦夷ばなし」「竹四郎廻浦日記」31巻・「東西蝦夷山川地理取調日誌」85巻・「東西蝦夷山川地理取調紀行」24巻・「北蝦夷日誌」・「蝦夷地名奈留辺志」3冊・「近世蝦夷人物誌」9巻などを著しています。

  5回目 さらに、1857年(安政4年)、五回目の蝦夷地調査で、石狩・天塩地方を調査。

  6回目 1858年(安政5年)、六回目の蝦夷地調査で、北海道の海岸線と十勝・釧路・日高地方を調査。
  翌1859年(42歳)、四~六回目の調査報告書を幕府に提出。蝦夷地の地図は、伊能忠敬(1745~1818)・その門弟間宮林蔵(1775~1844)、近藤重蔵(1771~1829)等の測量により海岸線はほぼ正確になっていましたが、武四郎の努力により内陸部の状況を詳細に図示した『東西蝦夷山川地理取調図』28枚が完成します。これは、海岸線・内陸部までを詳細にあらわした蝦夷地地図としては最大のもので、約9,800点のアイヌ語地名を収録した画期的な地図でした。「戊午蝦夷山川地理取調日誌」61巻、「蝦夷漫画」2冊の刊行。そしてアイヌ文化を紹介する本なども出版します。
またこの年、深川の儒学者梅園のもとに学問に通っていた武四郎(42歳)を見染めたという、旗本福田氏の娘「とう」と9月18日結婚しています。1860年(万延元年)~1864年(元治元年)には、蝦夷地の様子をわかりやすくまとめた紀行文などを出版しています。
この、六度に及ぶ詳細な調査では、先住民であるアイヌの人びとの協力を得て、その成果を調査報告をまとめ、寄稿や地図として出版、蝦夷地がどのようなところか、アイヌ文化のすばらしさを伝えることに一生懸命努めています。武四郎は、周到綿密な記録メモ・写生などをもとに、その生涯にわたって膨大な記録と文書、日記・書簡と絵図、数多い浩瀚な著書を残しています。実地調査をもとにした武四郎の著書は、常にアイヌ側の視点で書かれており、和人の過酷な差別・搾取の非道をきびしく糾弾しています。武四郎は、当時の場所請負人であった飛騨屋・村山伝兵衛・鷹田屋、そして柏屋藤野喜兵衛らが、多くのアイヌ人を遠い漁場などへ長期的に強制連行して酷使し、女を慰安の道具としていた悲惨な状況に対する憤りを書き記し、松前藩にも訴えています。

■開拓使判官時代
  武四郎は、1868年(明治元年)4月、明治政府から徴収士函館府判事に任命され、蝦夷地探検の業績により一万五千疋を賜っています。さらに、翌2年5月蝦夷地「開拓御用掛」を拝命、7月開拓大主典拝命しています。
  さて、明治政府にとっては、ロシアの脅威にさらされた蝦夷地の防備と開拓は急務でした。1869年(明治2年)7月、「箱館府」(明治2年9月、「箱館」を「函館」と改めます。)にかえて開拓使を設置しますが、初代長官には元佐賀藩主鍋島閑叟、開拓次官には元箱館府総督清水谷公考、開拓判官としては、札幌本府建設の先覚者島義勇、後の初代北海道長官岩村通俊と並んで、幕府時代からの蝦夷通といわれた武四郎(52歳)も開拓判官(従五位)に任命されます。そして8月15日武四郎の提案をもとにして、蝦夷地を「北海道」と改称し11ヵ国86郡を置きます。
  「北海道」命名について、武四郎は、「北加伊道」「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提出しています。11ヵ国86郡については、次のとおりです。
渡島国 (6郡)―亀田・茅部・福島・津軽・檜山・爾志
後志国(17郡)―久遠・奥尻・太櫓・瀬棚・島牧・寿都・歌棄・磯屋・岩内・古宇・積丹 ・美国・古平・忍路・高島・小樽・余市
石狩国 (7郡)-石狩・札幌・夕張・樺戸・空知・雨竜・上川
天塩国 (8郡)-厚田・浜益・増毛・留萌・苫前・天塩・中川・上川
北見国 (8郡)-宗谷・利尻・礼文・枝幸・紋別・常呂・網走・斜里
胆振国 (8郡)-山越・虻田・有珠・室蘭・幌別・白老・勇払・千歳
日高国 (7郡)-沙流・新冠・静内・三石・浦河・様似・幌泉
十勝国 (7郡)-広尾・当縁・大津・下川・河東・河西・十勝
久摺国 (8郡)-白糠・足寄・久摺・善報・阿寒・網走・上川・厚岸
根室国 (5郡)-花咲・根室・野付・標津・目梨
千島国 (2郡)-国後・択捉

この「北海道」の命名は、武四郎の提出した六案のひとつ、「北加伊」をもとにしています。それが「北海」となり、東海道や北陸道と同じく北海道に決定したのです。武四郎は、北海道の名前、国名(支庁名)、郡名をすべてアイヌ語に基づいて考えます。明治政府は、武四郎の考えた六案の名前の中から「北加伊道」を採用し、「北海道」と決定したのです。武四郎は、この命名について、「かい」はアイヌ語のカイ=この土地で生まれた者、「北のアイヌ民族が暮らす大地」という意味を込めたといわれます。また、国名・郡名についても、ほとんど武四郎の原案通り採用されています。
  武四郎は、「蝦夷通」の開拓判官として、開拓使長官にたいして、松前藩をほかにうつすこと・場所請負人制度を廃止すること・北海道を分割して諸藩に支配させることなど3点を主張していますが、聞き入れられず、また、先住民族アイヌに対する差別・搾取などの開拓政策を批判して、その救済に努力しましたが、結局松前藩の居座り請負人の復活に失望して1870年(明治3年)3月、52歳の時、在任わずか7ヶ月で 開拓使判官を辞職、従五位を返上します。明治政府は、武四郎の長年の功績を讃えて表彰(終身15人扶持)しています。

■趣味に生きた晩年
  官位を辞した武四郎は、馬場先門の岩倉具視右大臣邸内の御長屋に寓居しましたが、1873年(明治6年)5月、神田五軒町に敷地600坪をもとめますが、家は20畳(6畳二間・4畳半・3畳)ほどの小さなものでした。後に隠居所と書斎を建て増します。「草の舎」という一畳敷きの書斎は、全国の社寺の廃材を集めて建てたものでした。この「一畳の書斎」には半間ほどの床の間・造り付けの戸棚や書棚・明かり窓などの工夫があり、武四郎の好きな空間であったといわれます。広い庭はほとんど自然のままの庭を好んだようです。長年一所不住の探検家の人生を生きた武四郎にとっては、初めての自分の家でした。ここで、武四郎は、一市井として、北海道関係の書物執筆に専念したのでした。
  武四郎は、探検家として膨大な紀行文を執筆しただけでなく、詩歌を詠み、絵画をよくし、骨董品収集、考古学や天文・地理・植物・民俗学にも通じていました。また、天神信仰をおこなうなどさまざまな活動をしています。当時化け物のすむ山として恐れられた大台ケ原山(1,695m)を終焉の地と定めて、1885年(明治18年)、68歳から70歳にかけて、3度にわたり調査しています。1887年(明治20年)、西日本各地をまわり、70歳にして富士山にも登っています。
  1888年(明治21年)2月4日、下谷に住む親友鷲津毅堂宅で脳卒中で倒れて人力車で自宅に運ばれますが、10日午前4時東京神田五軒町の自宅で死去。享年71歳の生涯でした。12日浅草称福寺に埋葬されましたが、後に染井霊園に改葬されています。明治天皇は特旨をもってお供物料を下賜さ
れたということです。なお、遺言により、奈良と三重の県境にある大台ケ原に追悼碑(分骨碑)が建てられています。
   現在、松浦武四郎の銅像は、釧路市の幣舞公園に、道案内の老アイヌを従えて探検記をメモしている姿で建っています。武四郎の3回目の釧路調査(1858年・安政5年3月24日)からちょうど100年目にあたる1958年(昭和33年)11月に、阿寒国立公園観光協会有志によって、「松浦武四郎蝦夷地探検像」(中野五一製作)として建立されました。11月3日の除幕式では、東京から駆けつけた武四郎五代目の松浦一雄氏が除幕の綱を引き、釧路市長をはじめ多くの市民・30数名のアイヌも参列しておこなわれたようです。碑文では武四郎が阿寒の地を調査し景勝を紹介した功績を讃え「阿寒国立公園の父」として顕彰しています。釧路市は、武四郎に敬意を表して昭和7年、西幣舞町を「松浦町」と変更しています。また、留萌郡小平町のにしん文化歴史公園に銅像と歌碑(平成8,5)があり、天塩町鏡沼海浜公園にも遠くをみつめる武四郎の銅像と歌碑(平成9,5)が建立されています。また、「一畳の書斎」は、東京都三鷹市の国際基督教大学敷地内に移築保存され、国の登録文化財となっています。

「松浦武四郎蝦夷地探検像」台座正面の碑文
北海道及び釧路の名付け親 松浦武四郎は幕末に未開の地蝦夷探検の急務を説き一身を賭して苦難と闘いアイヌ民族の協力を得て東西蝦夷山川地理取調圖等蝦夷地開拓計畫の基礎を作成し為政者に供して諸種の献策を行いその促進をはかる
 安政五年(一八五八年)阿寒国立公園地帯を探査して久摺日誌を記述せしより百年目に當りクスリ酋長メンカクシの砦趾たりしヌサウシチャシコツに像を建て北海道開發先覚者阿寒の父として永えに顕彰せんとするものである。 昭和三十三年(一九五八年)
阿寒国立公園観光協会
釧路市公民館長 丹葉 節郎撰
北海道g悪芸大学教授 山口 野竹書

釧路市の幣舞公園にある松浦武四郎の銅像(昭和33年・中野五一作):写真提供釧路市地域史料室 
*中野五一(1897-1978)は、富山県出身、小樽・北見ゆかりの彫刻家。鉄道の父クロフォード像など。


<主な参考文献及び参考資料>
□「松浦武四郎蝦夷への照射」(日本の旅人⑭) 更科源蔵著 淡交社   □ 2004,7,23~8,22第58回特別展「松浦武四郎―時代と人びと」北海道開拓記念館  □北海道青少年叢書 北国に光を・掲げた人びと(26)「北海道の名づけ親 松浦武四郎」 合田一道著 北海道科学文化協会  □「明治の群像8開拓と探検」高倉新一郎編 三一書房  □ 三重県松阪市・松浦武四郎記念館資料  □「ほっかいどう百年物語」STVラジオ編 中西出版  □「開拓につくした人びと第3巻」北海道総務部文書課編集 理論社刊  □「炎の人 松浦武四郎の生涯」 本間寛治著 七賢出版  □「松浦武四郎」 吉田武三著 吉川弘文館 □「北海道の名づけ親 松浦武四郎」合田一道著  □「北海道の歴史」榎本守恵著 北海道新聞社   
□「釧路碑文手帳Ⅰ」釧路新書22釧路古文書研究会著 釧路市 □ 松浦武四郎研究会作成資料 □インターネット資料


ページのトップへ戻る 

 

前のページへ | 次のページへ


ホームへ